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斉藤 與一郎 (さいとう よいちろう) 1873年~1961年

独学で医術開業免状をとり、ドイツに留学、専門の細菌学を修め、函館区医として半生を伝染病防疫に当たり、初の地元選出市長として自治振興に尽くした斉藤與一郎。

明治6年10月26日、斉藤国次郎の長男として新潟県西頸城郡早川谷村字越村に生れる。父28歳、代々越村で庄屋をしていた比護家の出、呉服骨董類の行商を営み、母みねは同村の農五十嵐家の出で16歳だった。
14年與一郎8歳の時、父国次郎は糸魚川の医師の娘と恋愛に陥ち同棲、そのために母も兄弟4人を置いて実家に帰った。結局子供たちは祖母に育てられる。このように與一郎は稀にみる程の家庭的な不幸を味わった。しかし、このような環境にありながらも糸魚川小学校では成績優良で後に糸魚川町長となる小林鹿郎と首席を競い合った。
16年、父国次郎夫妻は郷土での悪評に居耐らず、函館の弟田沢謙を頼って夜逃げし、謙の世話で函館区会所町に飴屋を営んだ。18年5月、国次郎は、子供たちを函館に呼寄せたが、與一郎は田沢医院の書生となる。この時13歳だった。
その後父国次郎は飴屋に失敗し転々の後、宝町に「そば屋」を開業、これにも失敗。妻子と共に淋しく函館を去り札幌方面に流れて行った。
26年、與一郎は発奮して医師となる決意をし、独学で免状を取得する。33年1月21日叔父田沢謙が52歳で急逝。近親からの懇請により、2月1日会所町50番地遺児田沢謙次郎方に開業した。がその一方専攻の細菌学を生かすため函館区の公医をも引受け、3月5日区函館病院の嘱託となり、同22日区から派遣され東京の国立伝染病研究第1回研究生として入所、6月23日修業後帰函、あたかも区内に伝染病が蔓延していたので直ちに防疫の任に当ることとなり、道庁から臨時海港検疫委員を命ぜられ、函館区伝染病予防委員にも選任を受け、函館病院の焼跡に遺った建物を細菌検査所とし、本格的な伝染病の検診を開始、その半生を函館の伝染病防疫に当ることとなった。
39年10月6日、区民の盛大な見送りを受けてドイツに留学する。45年2月3日帰函するまでの7年間ドイツを中心にヨーロッパ各地で研鑽にいそしみ、この体験が後に医学だけでなく、教育の面でも開花することになる。同年、2月29日区では函館区医に任じ、区立精神病舎医長、区立伝染病院医長を兼任した。
大正9年2月20日(社)函館教育会長に就任。與一郎の発案で全国初の林間学校を開設、これはドイツ留学中に視察したものに範をとったものである。
與一郎が医師として公益に尽したことと言えば伝染病の撲滅だろう。免疫、血清、衛生の専門医として最初の人であり、この学識を経験として貢献したことは、種痘を全市民に義務づけ実行したことだろう。これは全国に種痘法がひかれる10年前のことだった。
昭和13年、電気争議に発し多年政争を繰返した函館市政界は漸く反省し、党色のない人格者を市長に迎え市の平和を取り戻そうと、市長銓衡委員会で與一郎を市長候補に推し、再三辞退したが懇望もだしがたく就任を承諾し、28日の市会で函館市長に当選就任した。函館初めての地元選出市長であった。
斉藤與一郎の長年の功労に酬いるために、国は藍綬褒章を贈り、北海道は文化賞を贈り、函館市は文化賞を贈ると共に名誉市民に推戴した。
昭和36年1月5日、斉藤與一郎は87年の波瀾にとんだ一生を終えた。

本文/「ステップアップ」vol.119(1999.2)より
(写真・資料/「斉藤與一郎伝」佐藤精発行、「海峡」海峡評論社、「歴史人物事典」北海道新聞社、「函館人物誌」近江幸雄著)


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