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齋藤 玄(さいとう げん) 1914年~1980年

モダニズムの洗礼を受け、後に伝統的韻文精神を尊重し、死生の間に寂光を放つ深い人間観照の俳境に達した齋藤玄。

大正3年8月22日、春日町(現・ 青柳町)に生れる。本名俊彦。父齋藤俊三は咀華と号した画家で、二科展に属し川端竜子、斉藤五百枝らと交友があった。祖父齋藤又右衛門は末広町において呉服店を営み、函館銀行の初代頭取となる。後にこの銀行は第百十三銀行に合併され、さらに小樽の北海道銀行と合併する。また、齋藤又右衛門は函館商工会議所の初代会頭を務め、市電の前身である水電会社の路面電車の社長もしている。
大正7年、4歳の時父を亡くし、10年住吉小学校(現・青柳小学校)、昭和2年函館中学を経て早稲田大学商科を卒業する。大学在学中の昭和12年、新興俳句に惹かれ従兄杉村聖林子に誘われて「京大俳句」に入り西東三鬼に師事する。
昭和13年、北海道銀行に就職し、翌14年留守節子と結婚する。15年、壷俳句会を興し、俳誌「壷」を創刊する。17年、句集「舎木」を刊行。18年、石田波郷を知り、これまでの俳号三樹雄を玄に改め波郷の主宰誌「鶴」に初投句し、巻頭を飾る。後に同人に推される。石川桂郎を知ったのもこの頃で、この年限定40部の句集「飛雪」を刊行する。19年印刷用紙事情悪化のため「壷」を休刊する。空爆下の東京勤務を避けるため銀行を退職する。21年1月号より「壷」を復刊。
昭和26年、新設の北海道銀行に入行。支店長としての多忙な生活などから俳句は一時休眠状態となる。42年銀行を退職し、道央信組の専務理事に就任する。
昭和43年、個人誌「丹精」を発行する。妻の癌死を詠んだ「クルーケンベルヒ氏ヒ腫瘍と妻」を連載して俳壇に復活、注目される。この作品は後に川端康成、波郷の絶賛を受ける。47年句集「玄」、48年自註現代俳句シリーズ「齋藤玄集」詩集「ムムム」を刊行する。
昭和49年、胆嚢炎で入院、その後病をかかえる身となる。昭和52年、滝川に句碑が建立される。翌年、直腸ガンで入院。道央信組退職、旭川に転居する。
昭和54年には、第5句集「雁道」により北海道では初めて蛇笏賞を受賞する。ちなみに蛇笏賞とは俳人飯田蛇笏を記念して設けられたもので、短歌の迢空賞と並ぶ俳壇最高の賞と言われているものである。
当初、モダニズムの洗礼を受け、後に伝統的韻文精神を尊重し、第二次世界大戦後は根源俳句の影響下に独自の句風を拓き、晩年は「俳句の真と新」を標榜しつつ、死生の間に寂光を放つ深い人間観照の俳境に達した。
昭和55年5月8日、旭川の唐沢病院で死を迎えた。癌との壮絶なまでの斗いであった。享年66歳。
昭和59年、壷俳句会により函館公園に第二句碑が建立された。

本文/「ステップアップ」vol.175(2003.10)より
(写真・取材協力/函館市文学館、参考/「北海道大百科事典」、「道南・函館大辞典」、「北海道文学大事典)


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