函館市文化・スポーツ振興財団

日下部久太郎 (くさかべ きゅうたろう)  1871年~1953年

函館を出発点として当時の日本の海運界に大いに貢献した大船主・日下部久太郎。

日下部久太郎

函館を出発点として当時の日本の海運界に大いに貢献した大船主・日下部久太郎。

明治4年6月、庄屋吉衛門の二男として美濃岐阜市在の坂丸村(現・羽島市)に生まれる。21年、日下部一族が出資者となって釧路町(現・釧路市)に愛北物産会社を設立。この年の11月、久太郎は社員として少壮の志を立てて来道する。後に期する処があり同社を退社。

明治26年、函館にて米穀・肥料・海陸物産商を開業し、傍ら海運業に乗り出す。しかし、たまたま米相場の暴落にあい失敗し閉店を余儀なくされる。

明治35年、函館に北海産業合資会社を設立。海運部主任となり、大いに手腕をふるうが、同社は他の事業の失敗を招き又昔日の信用を維持することが出来なくなり、40年同社を退く。日下部はこれに屈せず翌年、日下部汽船合名会社を組織して代表社員となり海運・船舶代弁・船舶売買を業とし44年、神戸に支店を設け大いに業務を拡張する。

大正3年、第一次世界大戦勃発により船価が日一日毎に暴騰、日下部は巧みに機会を捕らえては船舶を購入し、更に造船の計画を立てて数隻を新造する。一方用船を用いて盛んに回漕の業に従い、大戦の船価暴騰を生かした船舶売買と用船により大成功を収める。

大正6年9月、世界進出をもくろみ、従来の合名会社を解散して日下部株式会社を創立し自ら取締役兼社長となる。株式会社への改組に伴い函館を支店とし営業の本拠地を神戸へと移す。おもに本州-北海道に配船し、夏季は日魯漁業と提携して船舶を北洋の漁場へ送り込み仲積を行う。

その4年後、主業の海運業を明確にするために商号を日下部汽船に変更。
同社は戦後不況をくぐり抜け、12年には海運仲立業部門への進出を図るために汽船本社とは別に神戸日下部株式会社と函館日下部株式会社を創立する。

大正6年は函館の海運界にとり一つの転換期でもあり、多くの個人船主が営業形態を会社経営へと移行させていった。その背景は海運好況によるものであった。5年に行われた全国の資産家調査で函館の資産家は22名の名があげられ、そのうち海運・回漕業者が実に9名を占め、いかに海運関連業者の経済的上昇が顕著であったかがわかる。もちろんその中には日下部久太郎の名も上がっていた。

ちなみに大正15年に東浜町(現・末広町)に鉄筋3階建ての万世ビルを建てると1階に日下部株式会社の事務所、2階は浜根汽船、3階に五島軒が入居した。

しかし、第二次世界大戦の終結により海運界は全滅の状態となり、日下部も例外ではなかった。昭和24年、函館運送を創立し、海運から陸運へと業務の転身を計り危機を脱した。

汽船17隻、総トン数3万7770トン(大正10年)を有し日本の海運界に大いに貢献した日下部久太郎は、昭和28年7月、83年の生涯を閉じた。

函館ゆかりの人物伝