函館市文化・スポーツ振興財団

邦 かめすけ (本名 佐藤 定一)(くに かめすけ)  1920年~1975年

郷土で絵(マンガ)を描くことに最後までひたむきだった邦かめすけさん。

邦 かめすけ

大正9年、市内旭町に生まれる。東川小学校から昭和10年、道立函館工業高等学校建築科に入学する。

小学校高等科に在学中の昭和9年、14才のとき漫画家和田邦坊の内弟三浦邦輔の弟子斉藤画造(従兄)の影響を受けマンガを描き始める。そして戦前の人気漫画家「団子串助」の宮尾しげを、「のらくろ」の田河水泡、「冒険ダン吉」の島田啓三らのマンガに影響される。

昭和12年、弓削栄治、清水崑、近藤日出造、左一介他のメンバーで「函館漫画クラブ」がで発足された。

昭和14年、函館工業高等学校を卒業。室蘭の富士鉄に勤務する。この頃もマンガは毎日描き続け、雑誌などにもよく投稿していた。この時の選者近藤日出造氏に「アマチュア漫画としてこれ以上すぐれたものはない」と激賞されたこともあり、漫画への愛情はますます強くなるばかりで、当時札幌にいた漫画家おおば比呂司氏らと「新世漫画会」を結成、グループによるマンガ展を札幌や函館で開いた。

戦争も終わろうとする頃、西谷重美らによって「函館漫画研究会」がつくられた。

一人息子であった邦さんは戦後、親がなくなって函館に戻り、昭和22年から市立函館病院に勤務した。

昭和25年6月、函館市が毎月発行する「市政はこだて」の創刊と同時に4コママンガ「巴一家」の筆者となった。このマンガは24年間、600号以上にわたって続けられてきた。

「巴一家」は夫婦に男の子一人の小市民的なサラリーマンの3人家族。画風は邦さんの円満な人柄がで現れ、ほのぼのとした「巴一家」の生活は市民の共感を呼んでいた。この連載は日刊商業紙の連載に比べても見おとりしない超ロングランの記録となった。

この年、当時の函館新聞の投稿者が集まり「函館マンガマン」を作りメンバーが交代で連載リレーマンガを描いた。これも新聞の廃刊で解散してしまった。

昭和45年、邦かめすけさんは、函館で初めてのマンガ展を開いた。その時の作品には、函館名物のイカの悪臭をかがせまいと観光客の鼻に洗濯バサミをはさむなどのユーモアと風刺のきいたものも数多く展示された。

昭和46年、函館市公民館の八木館長の提案で邦かめすけさんを中心に9名のメンバーで「函館マンガ人」が発足された。“おもしろ、おかしさのほかに、批判精神や風刺のきいたもので、警察からしかられるようなマンガを描こう”が合い言葉であった。

当時の函館市民なら大人も子供もひと目見ただけで、“これは邦さんのマンガだ”と判別できるほど郷土の漫画家として親しまれていた。

その人柄は物静かで紳士。悪童共のけしからぬ話に顔をあからめるほどで、その真面目さは仲間うちでも定評があった。

昭和49年夏、イン頭シュヨウで、市立函館病院に入院。そして1年余りの闘病後55歳の若さで他界した。病床でも力の続く限り絵筆をにぎり、長兄邦生氏の肖像画が絶筆になった。

当時、22歳であった次男の卓郎氏が今、父の遺志を引き継ぎ、「市政はこだて」の4コママンガ「ポテトちゃん」を連載、その卓越した筆さばきでマンガ道を歩いている。

函館ゆかりの人物伝