函館市文化・スポーツ振興財団

河野政通 (こうの まさみち)  生没年不明

函館の語源と言われる「箱館」の館主、河野政通

河野政通

河野政通は、伊予国(愛媛県)の越智氏から出た河野氏の後裔とされ、加賀国江沼郡(石川県江沼郡)の出身で、河野加賀右衛門尉越智政通と称した。箱館草創の館主で、生没年は不明である。遠祖は、伊予国河野荘河野新太夫通清。流浪して南部の田名部(現・むつ市)に到る。

享徳3年(1454)8月28日、津軽の豪族安東太郎政季(まさすえ)に従って、南部大畑より武田信廣(松前氏の始祖)、相原政胤(まさたね)らと蝦夷島(北海道)に渡る。2年後、政季が秋田に赴く際、茂別館(現・北斗市)を下国家政(政季の弟)に預け、政通を副主にしたという。

河野政通は、当時「宇須岸(うすけし)」と呼ばれていた当時の函館に「館」を築く。これが「宇須岸河野館」で、場所は市立函館病院跡地から元町公園あたりで大きさは、東西間口35間(約64m)、奥行南北28間(約51m)の四方に土塁を築き、乾壕をめぐらしていたといわれる。

その館が箱形だったので、「河野館」に由来して、宇須岸は「箱館」と言う地名の発祥となったという説が有力とされている。(明治2年に蝦夷地が北海道となり、箱館も「函館」と改められた)

宇須岸の館に拠り、河野政通・季通(すえみち)の父子二代58年間この地を治めたが、長禄元年(1457)コシャマインの戦いで館はアイヌに攻め落とされた。のち回復するが、永正9年(1512)4月16日、再びアイヌの戦いで二代季通(すえみち)は父・政通と娘・3歳の蔦姫を逃がした後、一本木(現・若松町)で奮戦自害し、家名断絶となる。この戦いの後、住人は亀田に移り、箱館は以後100余年にわたって衰退した。

季通の娘・蔦姫は、乳母に抱かれ富山三郎武通に守られて松前に逃れ、長じて松前氏四代蠣崎家当主の季広の正妻となり、松前藩祖となる五代慶広(よしひろ)を生む。

慶長7年(1602)、松前慶広の六男の松前景広が名跡を継いで河野加賀右衛門と名乗るが、すぐに松前姓に戻し、河野系松前家と呼ばれる。アイヌとの戦いにより、次第に住民は繁栄を誇ったこの地帯から追い払われ、函館周辺から上ノ国、福山(現・松前)の地に移っていく。

称名寺の納骨堂の左側に供養碑がある。これは宝暦3年(1753)4月8日、松前藩亀田奉行酒井伊左衛門喜澄が、河野政通を供養して建立したものである。

函館ゆかりの人物伝