函館市文化・スポーツ振興財団

コウ・マリア・ヴァイドル・レイモン(勝田コウ) 1901年~1997年

戦争に翻弄されながらも、“胃袋の宣教師”カール・レイモンと共に波乱に満ちた人生を歩んだ勝田コウ。

明治34年、勝田旅館の長女として生まれる。旧姓勝田コウ。
コウの母は弘前で造り酒屋をしていた奥村家の三女で、姉の嫁ぎ先であった勝田旅館に養女にもらわれ、秋田から養子として迎えられた勝田鉱蔵と18歳の時結婚する。
コウは身体が弱く、一年遅れて住吉小学校に入学する。やがて両親からすすめられ庁立高女(現・道立函館西高等学校)に入学。
大正10年、女学校を出たコウは家業の旅館を手伝う。その頃の函館の街は活気がみなぎり外国人の姿も珍しくない風景だった。
カール・レイモンが勝田旅館に泊まりに来たのはこの頃。ドイツに生まれ、食肉加工技師として技術をみがくためアメリカを回っていたレイモンは、東洋に憧れ日本に立ち寄る。レイモン27歳の時だった。
やがて、コウとレイモンの間に愛が生まれる。外国人が珍しくない土地柄とはいえ、国際結婚にはまだまだ周囲の理解など難しい時代であった。両親は猛反対で、コウは死のうとまで思い詰める。けれども、レイモンの一途な情熱とコウの若さで、死ぬならいつでも死ねる、どこまでやれるかやってみようと家を出る決意をする。落ち合う場所を中国の天津に決め、コウはひとり下関から釜山に渡る。
大正11年2月、無事天津で落ち合った2人は、レイモンの生まれたドイツへの旅券をもらうため上海へ向かう。日本領事館に行き旅券の申請をするが許可してもらえず、毎日通ってようやく旅券がおり、船でマルセイユへと発つ。
同年4月25日、2人はレイモンの故郷ドイツ南部・カールスバード(現・チェコ)の教会で結婚式をあげ、後にハム、ソーセージの店を開く。店は大繁盛するが、その頃反日感情が高まる一方で、2年程で函館に帰ることを決意。資金を作るためシカゴの工場で半年働き、大正15年函館に戻る。
函館駅の近くに小さな店を持つが、ドイツと違ってさっぱり売れず、東京へセールスに出たり、タダであげたり、苦労を重ね、3年でやっと売れるようになり、五稜郭駅近くに工場を建て、大野にも大きな工場を持つ。
昭和13年、順風満帆の2人に悪夢が襲う。レイモンが道庁に呼ばれ、外国人には今後一切畜産加工の仕事をさせないと言われ、大野の工場を強制買収される。戦争が激しくなるにつれ、特高(特別高等警察)の目が厳しくなる。強制買収で支払われたお金で元町に家を買い、切り詰めた生活が始まる。
戦争が終わり食肉加工を自由に行っても良いことになるが、買収された大野の工場は戻らず、物置を改造して工場を造り、細々とハム、ソーセージ作りを始める。
昭和62年10月、レイモンは朝の散歩から帰ると、一過性脳梗塞で倒れ、一ヶ月後の12月1日、意識不明のまま帰らぬ人となった。10年後の平成9年、波乱に満ちた人生をカール・レイモンと共に歩んだコウも95年の生涯を閉じた。

本文/「ステップアップ」vol.234(2008.9)より
(写真・資料/「道南女性史研究-明治生まれの女たち-」創刊号、「道南の女たち」道南女性史研究会編著、「レイモンさんのハムはボヘミアの昧」シュミット村木眞寿美著、取材協力/函館市中央図書館)

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