函館市文化・スポーツ振興財団

孤山堂無外 (こさんどう むがい) 1819年~1893年

常陸(ひたち)の農家に生まれ、江戸の孤山堂二世卓朗に学び、函館俳壇に君臨した孤山堂無外。

文政2年2月18日、常陸国茨城郡小泉村(現・茨城県水戸市)の農家・荻谷太郎兵衛の三男として生まれる。小さいときから連歌や俳詣を好み、嘉永6年4月、35歳の時、江戸に出て卓朗の門に入り「雪耕」と号して教えを受ける。
卓朗は、孤山堂始祖の「大梅」が早く亡くなったため、孤山堂二世として名高かった人で、雪耕を非常に愛して「無外」と言う号まで贈り、江戸に出て来るよう再三すすめていた。無外は卓朗の門に入るとたちまちにして頭角をあらわし、蚊雷庵をつぎ「脇宗匠」となる。
その頃、無二の俳友に「思楽」という者がおり、本名を多胡九郎兵衛といったが、また卓朗の門人であった。
思楽は箱館奉行所の用達(通運業)島屋左衝門の支配人をしていたので、奥州や蝦夷地にも俳諧の友が非常に多く、箱館に大非居葱玉(建築請負業・中川伊兵衛)、江差に蓼窓庵一鼎(豪商・関川平四郎)、鴎鳴舎淇山などがおり、無外はこれらの俳友をたよって俳諧普及のため、奥州路から蝦夷地への行脚に出かける。
安政5年初秋、老師卓朗宗匠を同門の三朗に託して江戸を立ち、翌々年の万延元年に福山(現・松前町)に渡る。同年、箱館に来て越年はするが、その時はまだ蝦夷地にも箱館にも落ち着くつもりはなかった。
文久2年5月、江差に俳友・一鼎を訪ねるが、一鼎はチョ女なる者を媒酌する。この女性は大塩平八郎の女(函館区戸籍簿には大和平八郎の長女とある。あるいは平八郎の妾ともいわれている。)で、平八郎の乱の後逃れて越後を経て江差に来たといわれている。これにより大塩の姓を名乗り、慶応元年正月、老師孤山堂二世卓朗の死により上京して孤山堂三世をつぐ。
明治元年、榎本等の幕府脱走兵が箱館を占領するが、その中に俳友の中島三郎助がいたので、時々三郎助を陣中に訪ね応酬した七十二吟を集めて二巻とした。また、三郎助の戦死を悼んだ無外の句に「武士の魂か一声郭公」がある。
明治8年2月、開拓使函館支庁会計課に奉職し、後谷地頭の地(現・函館公園)に庵を移す。10年11月函館支庁を辞して、12月函館裁判所に出仕し、11年5月函館公園看守を命じられ、浅田清次郎翁と同公園の設計や監督に努力し、庵の下に小さな真竹を植えて竹林を造ったり、梅を愛して公園内に沢山植えたり、幾百種の菊を植え常にここの井戸の水をそそいで育てていたことから、当時の人々はこの竹林を「無外の竹薮」、またこの井戸を「無外の井戸」と呼んだ。
明治21年、函館八幡宮の神主となり、26年6月10日、俳友数十人の句額を八幡宮に納め、その夜、函館公園の庵で死去。その句額には「鶯に耳うとしとは老のうそ」と「忘れ杖花の栞とならばなれ」の2句がある。この年の正月に吟じた「はつゆめやわがよもまさに七十五」の碑句が地蔵堂の住吉墓地の海側の崖道を上ると右側にある。

本文/「ステップアップ」vol.240(2009.3)より
(写真/函館市中央図書館所蔵、資料/「北海道史人名辞典」北海道庁史料編集所発行、「函館郷土史話」元木省吾著、「函館・道南大事典」南北海道史研究会編集、取材協力/函館市中央図書館)

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