函館市文化・スポーツ振興財団

今東光 (こん とうこう) 1898年~1977年

人間形成に大切な時期を函館で過ごし、新感覚派作家として出発、小説家で天台宗僧侶、参議院議員を勤めた今東光。

明治31年3月26日、津軽藩士の家系の父・武平、母・綾の3人兄弟の長男として、横浜市伊勢町に生まれる。父は日本郵船の船長をしていたため、小学校時代は転校にあけくれる。父について函館に移住し、遺愛幼稚園から弥生小学校へ進み、その後小樽、横浜、神戸と移住する。
明治40年、大阪に住む叔父、木村方に寄宿する。陸軍軍人だった叔父の厳格な教育に反抗。この反骨精神は終生続いていく。
大正3年、関西学院中等部2年に在籍中、新潮に学校批判の文章を投稿したり、牧師の娘と交際したことから退学となり、これを機に上京する。東京小石川の叔父、斎藤方に寄宿。「大平洋画塾」「川端画塾」に通い、画家を目指しながら文学も志し東郷青児、関根正二らと親交を結び生田長江に佐藤春夫を紹介される。東郷、佐藤らと第6回二科展に油彩を出品するも選に入らず絵筆を折る。
同人誌「キムシュカ」を創刊するが、すぐに廃刊となる。その後、一高生の川端康成と親しくなったばかりでなく東大のもぐり学生となり、当時、一高、東大関係者しか入れなかった『新思潮』の同人となる。菊池寛は「あれは不良少年じゃないか、中学も出ていないくせに、君たちの仲間のような顔をして、大学の教室へ出入りしている。『新思潮』は元来、一高と帝国大学の卒業生で作られている。今東光のような不良少年に参加させるのは、伝統に傷つけるものだ」と言って反対したが、川端康成に「今くんを仲間に入れられないなら、新思潮をやる訳にはいきません」と言われて、しぶしぶ東光の入会を認める。
大正12年、『文芸春秋』『文芸時代』の文壇の仲間入りをしたのも束の間、菊池寛と対立して脱退し、『文党』を創刊するが、文壇のボスである菊池寛の目の黒いうちは文壇から追放されたかたちとなってしまう。
昭和5年、出家して天台宗延暦寺の僧侶となり、8年まで京都比叡山に籠もるが、その間に月刊雑誌や新刊書を読んで力をつけ、23年に菊池寛が亡くなったあたりから創作を復活し、『役僧』『闘鶏』などが評判となり、文壇に返り咲く。
昭和26年、大阪府八尾市中野の天台院の住職となり、32年『お吟さま』で第36回直木賞を受賞する。
後に岩手県平泉、中尊寺の貫主※となり、毒舌和尚としてテレビでも活躍し、43年7月参議院選挙に全国区より立候補して当選。49年まで1期を勤める。
晩年には、S字結腸癌を患い国立がんセンターで2度の手術を受ける。
昭和52年6月、体調を崩し再々度の入院、そして急性肺炎を併発し、9月19日、示寂※(じじゃく)。
※貫主=かしらに立つ人。 ※示寂=高僧が死ぬこと。

本文/「ステップアップ」vol.260(2010.11)より
(資料提供/函館市文学館、取材協力/函館市中央図書館)

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