函館市文化・スポーツ振興財団

今日出海 (こん ひでみ) 1903年~1984年

伝統文化の保存と地方文化の育成に大きな功績をあげた作家で文化庁初代長官の会日出海。

明治36年11月6日、日本郵船の船長であった父・武平の三男として弥生町に生まれる。長兄は小説家で天台宗僧侶の今東光。幼児期は小樽、横浜で育つ。
明治44年、父の転勤により神戸市の小学校へ入学。神戸一中から東京の暁星中学を経て旧制浦和高校に入学する。
大正14年、東京帝国大学仏蘭西文学科へ進み、辰野隆、鈴木信太郎らに学ぶ。同期に小林秀雄、三好達治、中島健蔵らが、一年下に佐藤正彰、武田麟太郎らがいた。築地小劇場を観て演劇に熱中し、翌年村山知義、河原崎長十郎、市川団次郎、池谷信三郎らが結成した劇団「心座」の演出に加わる。また、中学の頃からチェロを始め、高校以来の親友諸井三郎が昭和2年に始めた前衛的な音楽団体「スルヤ」に関係する。
昭和3年、東大仏文科を卒業する。就職できず法科へ入り直すが、外交官試験の年齢制限に気付き翌年退学する。矢代幸雄の「黒田清輝美術研究所」(現・東京国立文化財研究所)の嘱託として西洋美術史を1年あまり研究する。同年、「文芸都市」、5年には「作品」の同人となり、のちに「文学界」の同人に加わり、評論・随筆・翻訳を載せる。左翼に同じない正統芸術派的立場であった。
昭和4年、心座から中村正常、舟橋聖一、池谷信三郎ら右派が独立した「蝙蝠座(こうもりざ)」に加わる。
昭和16年11月、陸軍の報道班員に徴用され、三木清、尾崎士郎、石坂洋次郎、火野葦平らと太平洋戦争初期のマニラに約1年滞在。この体験が「比島従軍」として発表された。19年12月に再度徴用されたときは、マニラに着いて8日目にアメリカ軍が上陸し、ルソン島北部への約5ヶ月の逃避行ののち、台湾へ脱出。さらに台北から福岡雁ノ巣飛行場へ帰る。このレイテ島総攻撃報道のため、敗走する日本軍と5ヶ月間山中を放浪。その時の記録「山中放浪」は、戦争文学の傑作といわれている。
昭和26年、小説「天皇の帽子」で第23回直木賞を受賞。41年、網膜剥離で片目の視力を失う。
昭和43年6月、佐藤栄作首相に請われて文化庁初代長官となり、約4年間勤める。47年10月から国際交流基金の初代理事長を8年間勤め、モナリザの日本初公開、およびパリの唐招提寺展を実現させる。
昭和49年、勲一等瑞宝章を受け、53年文化功労者に選ばれる。55年、国立劇場の会長となる。そのほか、放送番組向上委員会委員長、日本アカデミー賞協会会長などの役職が、80近くに及んだ。
昭和59年7月30日、81年の生涯を閉じた。

本文/「ステップアップ」vol.261(2010.12)より
(写真・取材協力/函館市文学館、函館市中央図書館)

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