函館市文化・スポーツ振興財団

小南武一 (こみなみ ぶいち) 1897年~1976年

大火後、函館市復興のために招かれ、地方都市としてはいち早く鉄筋コンクリート造りの夜明けを導いた、小南武一。

明治30年2月15日、兵庫県別府村新野辺(現・加古川市)の加古川製紙会社に勤める佐太郎を父として、七人兄妹の長男として生まれる。
尋常高等小学校を卒業後、父が勤める製紙会社の建築課へ就職する。
大正9年4月、上京。築地の工手学校に入学する。
大正12年、工手学校を卒業。曽根中條建築事務所に入所する。初めての現場が、東京銀座四丁目の服部時計店の新築工事であった。この年の9月1日、関東大震災が東京を襲い、一夜明けると、さしもの東京も広漠たる焼野原と化す。武一はその復旧
工事を担当した。
大正時代、函館は連続して大火に見舞われ、建造物の不燃化、特に鉄筋コンクリート建造物の必要性が叫ばれていた。大正14年、佐藤孝三郎市長は曽根中條建築事務所にコンクリート建造物の経験者を依頼、3人が推薦され、その内の一人が武一で
あった。
大正14年4月、技手として函館市の辞令を受ける。初めて手がけた仕事は、社会事業関係の西川町市民館だった。函館市の工事として初めての鉄筋コンクリート造りで、その後も函館公園内の市立函館図書館本館、函館市公民館等を設計する。
昭和9年3月21日。夕方、市内住吉町の民家から上がった火は強風に煽られて次々と人と町をのみ込み、市街地のほとんどが灰じんと帰した。大火後、復興事務局が設けられ、6つの小中学校の設計を担当する。このうち、弥生小は焼失区域から外さ
れたが、防火意識の高まりを受け、13年に建て替えられた。武一が設計した旧校舎の特徴は力ーブを描く外壁や、廊下のアーチ形の天井などで、弥生小以外の学校にも、アーチ形の天井や円窓などの共通点がある。
昭和12年、大火義援金により函館共愛会館、蓬莱アパート、翌年、函館大火殉難者慰霊堂がいずれも武一の担当で落成した。この慰霊堂は数多い建物のうちでも武一が最も愛した建物のひとつであった。
昭和17年、建築課長となる。技手から技師、技師から管理職となり、都市計画に関する仕事が主となる。22年工務部長、27年には建設部長となり、28年港湾部長を兼務。同年8月12日、市助役に昇進。30年5月14日、退任する。後に、小南一級建築
士事務所を設立。住宅や病院、小学校や工場などの建築を手がける。かつて松風町にあった彩華デパートも小南事務所の設計だった。
晩年、大病を患い、昭和51年1月20日、真冬日の寒い日、79年の生涯を閉じた。

本文/「ステップアップ」vol.284(2012.11)より
(写真/米山義勝、資料/「播州解□(糸へんに覧)・小南武一の生涯」小南ミチ発行、「北海道新聞・みなみ風」平成24年8月23日・24日号、取材協力/函館市中央図書館、米山義勝氏)

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