函館市文化・スポーツ振興財団

小池 毅 (こいけ つよし) 1874年~1898年

ペストが大流行した台湾の地で自らもペストにおかされ若くして逝った、日本細菌学界のかくれた先覚者、小池毅。

明治7年11月5日、会津藩の最後の侍医小池求真と旧会津藩士有賀英樹の姉タミの三男として北海道歌棄郡有戸村(現・寿都郡寿都町字歌棄)で生れる。長兄を精一、次兄を清次郎という。
明治13年、歌棄小学校に入学する。16年、父求真歌棄有戸にて死す。享年58歳。長兄精一は函館で医学を学び、翌年医師開業する。
明治18年、函館の兄精一を頼り母タミとともに函館に来る。函館弥生小学校に転向する。兄精一の紹介で函館の医師田沢謙次郎の甥斉藤與一郎を知る。21年、弥生小学校を卒業し、高等科に進む。会所町の田中病院の薬局生となる。
代々医家であった誇りと、父母が遭遇した非運の会津藩出身であることの理由から、勃然たる向学の念は日に日に高まり意を決して祖先代々が引き継いできた医学を志す。かくして明治23年16歳の時、笈を負って東京済生会学舎に入校、3年で卒業する。その間の学費は函館で細々と医院を開業する兄精一からの援助によるものだった。
済生会において勉学中、少しでも学資をうるために陸軍軍医を志願し、三等軍医に任ぜられた。毅が軍医となったもう1つの理由に、日清戦争の最中であり、医をもって国恩に報ぜんとする気持ちも加わっていたようだ。
毅が済生会で特に興味をもって勉学したのは「細菌学」であった。当時、北里柴三郎博士は、ジフテリア血清療法の発明と香港において発見したペスト病原体の発見により、北里細菌学は一躍、世界の医学界に認められることになった。北里博士は東京芝に伝染病研究所を設立。この時、伝染病々理を学んだ人物が是非ほしいと済生学舎の創立者長谷川泰に申し入れ、その条件にピッタリだったのが小池毅だった。
明治27年、北里柴三郎の伝染病研究所の員外助手となる。研究所入りしても、特にナゾの細菌とされていたペストの病原体の発見に必死に挑戦していた。毅はこの頃、すでに北里博士が発見したというペスト病原体に疑問を持っていた様だ。
北里博士がペスト菌を発見したと公表した後、フランスのエルザン博士が香港にやってきて、別のバイ菌をみつけてエルザン菌と称し、2つの病原体をめぐって永く学界論争が続くことになる。毅はエルザン菌の賛意の根拠と自らの研究結果を「黒死病論」「百斯篤(ペスト)菌鎖談」その他の著書の中で公表、北里博士からは破門同様の身になってしまう。
明治30年、台湾にペストが大流行し、派遣中の日本軍人、台湾市民、高砂族のこれに罹患する者数知れず、毅はその只中に飛び込む。台湾においては台北、新竹のわが陸軍、市民、山間僻地にある高砂族をもペストから救うために懸命の医療、研究に挺身する。しかし、不幸にも自らもペストにおかされ、台北衛戌病院にて死去する。時に明治31年2月28日、年僅か24歳であった。

本文/「ステップアップ」vol.161(2002.8)より
(写真・資料/「会津会会報・細菌学者小池毅の生涯」小池明著、「非魚放談」斉藤與一郎著、「HAKODADl」幻洋社発行、「細菌學雑誌第貳拾九號」、「北海道新聞」昭和35年9月31日発行)

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