函館市文化・スポーツ振興財団

木下順一(きのした じゅんいち) 1929年~2005年

市井の人々が寄せたエッセイや小説、インタビュー記事などで”街”の息づかいを届けてきた月刊タウン誌「街」の発行人で、作家の木下順一。

昭和4年6月1日、日魯漁業社員の父・健太郎と母・初江の長男として真砂町(現・大手町)に生まれる。結核性関節炎を患い7歳で右足の切断手術を受ける。木下順一のすべては、痛む右足を切断した7歳の秋から始まった。
昭和17年、旧制函館中学(現・函館中部高等学校)を受験する。自信はあったが、結果は不合格。市内の的場高等小学校に進む。「戦時下の中学校は準士官学校で、軍事教練のできない障がい者は入学できない」ということだった。順一にとって人生初の挫折だった。
昭和19年、函館工業学校夜間部に聴講生として入るが、ほとんど古本屋へ通う毎日だった。この時が、人生で最も充実した読書の時間だった。
昭和23年、新制の的場中学校に代用教員として採用され、英語と美術を教える。
昭和26年、国学院大学の文学部に入るが、一年で中退。上野の文部省図書館職員養成所に通う。小説家を志したのは、このころで、国学院大の仲間と文芸誌「ナルシス」を創刊し、小説を掲載する。21歳の時に書いた小説「怪物」を作家の埴谷雄高が読み、「才能を感じます。あとは努力しだいです」と評価され、俄然やる気がでる。
昭和29年、図書館職員養成所を卒業と同時に函館に帰る決心をする。東京で小説家になる夢を果たせなかったことは、2度目の大きな挫折となった。この2つの挫折が、順一に障がい者の文化を築かなければと気付かせる。
昭和37年、季刊誌「函館百点」の創刊メンバーに加わる。誌名を「月刊はこだて」「タウン誌・街」と変え編集と発行に携わる一方、函館文学学校の講師を務めながら、小説や随筆を発表。小説「湯灌師(ゆかんし)」で第32回北海道新聞文学賞を受賞する。
昭和58年、函館文学学校の開校10期の記念公演会の講師として招いたのが、作家・井上光晴だった。函館を気に入った井上光晴は、ここに文学伝習所を開くと宣言。函館文学伝習所は、昭和59年から64年まで6回開かれた。季刊文芸誌「兄弟」を創刊するが、井上光晴が大腸がんに侵され2号を出して終わった。井上光晴の遺志を継ぎ、平成8年から年2回、文芸誌「外套(がいとう)」を発行する。
平成17年2月、一度の休刊もなく街の息吹を伝え続けてきた長寿タウン誌が、木下順一の高齢を理由に43年の歴史に幕を下ろした。
平成17年10月27目、病が原因となって死去。享年76歳だった。
平成18年6月、タウン誌「街」は元編集員により木下順一の遺志を継いで季刊誌に衣替えして復刊され、24年に通算536号を発行し廃刊となった。
平成25年6月、タウン誌「街」の歩みを振り返る一冊、「わが街はこだてタウン誌50年」が発刊された。

本文/「ステップアップ」vol.293(2013.8)より
(写真/「街」編集室、資料/北海道新聞「私のなかの歴史」、他、取材協力/「街」編集室、函館市文学館)

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