函館市文化・スポーツ振興財団

木村文助 (きむら ぶんすけ)  1882年~1953年

函館周辺に優秀な教師を迎えたいと誘いを受け来函。近郊の小学校にあいて綴り方教育・現在の作文教育をもって、すぐれた功績を残した作文教育の先駆者・木村文助。

木村文助

明治15年6月25日、秋田県北秋田郡落合村に木村徳之助の子として生まれる。生まれてすぐに母親が亡くなり、おじ夫婦の元で育つ。

明治35年、秋田師範学校卒業後、県内の川口、釈加内、大館、阿仁合の各尋常高等小学校で訓導(教頭)として教鞭を執る。両親の愛情を知らずに過ごした幼い日を振り返り、児童教育の重要性を実感する。

明治44年、29歳の若さで校長の要職に就き、真名尋常高等小学校から綴り方教育に専念する。長谷川天渓の「自然主義」を読み開眼。トルストイの作品を耽読したり、東京に徳富蘆花を訪ねたりと自然主義の文学に傾倒。前田尋常高等小学校では、村の青少年を対象に冬期間夜間学を開設。秋田県より表彰される。

大正5年、秋田師範学校の先輩で函館師範学校の初代校長に就任していた和田喜八郎から函館周辺に優秀な教師を迎えたいと誘いを受け、大正6年春、北海道に渡り、函館に居を構え、函館師範学校の事務長を務める。翌年7月、大野尋常高等小学校訓導兼校長を命じられ、大野村に引っ越す。

ちょうどこの年、東京で作家・鈴木三重吉が日本初の児童文芸誌「赤い鳥」を創刊。鈴木はこの雑誌に小学生の綴り方を掲載するとともに、文章はあったことや感じたことを普段使っている言葉で書くべきと主張した。当時としては非常に画期的な提唱だった。この時、文助は自身の綴り方教育の方向性を見つける。

日々の暮らしのありのままを書くことを許された子どもたちは、純粋な瞳と心で見つめた様々な出来事を自由に綴った。

大野小学校に赴任してから4年目に、愛読していた「赤い鳥」に綴り方数編を初めて投稿する。尊敬する主宰者の鈴木三重吉に一度でいいから大野の子どもたちの綴り方を読んでもらいたいと思った。ところが、初投稿で第一席となる。北海道の小さな農村から投稿した綴り方を、そして自分の指導を認めてくれる人がいる。

40歳になって大いに自信をつけ、以降も投稿を続け、掲載されるのは毎月10編足らずなのに大野尋常高等小学校の綴り方は毎号のように紙面を飾り、全国の教育者、ことに地方の教師たちに大きな刺激を与える。昭和4年に休刊になるまで、大野尋常高等小学校の綴り方は全国で最も多い59編が掲載された。

昭和3年、砂原尋常高等小学校訓導兼校長。10年、戸井村日新尋常高等小学校訓導兼校長。13年、退任。子息のいる森町に移り住む。16年、札幌昭和中学校に赴任。19年、退職して森町に戻る。

昭和28年、森町で教育に捧げたその生涯を終えた。享年72歳だった。

大正7年から昭和13年まで道南の大野町、砂原町、戸井町の尋常高等小学校で校長を務めた木村文助は、綴り方教育・現在の作文教育で優れた功績を残した。中でも、日本初の児童文芸誌「赤い鳥」で大量入選を果たした大野小学校は、日本一の綴り方学校と高く評価された。

函館ゆかりの人物伝