函館市文化・スポーツ振興財団

木田 保造 (きだ やすぞう) 1885年~1940年

日本で最初の不燃構造の寺院「東本願寺函館別院」の工事にあたった北海道コンクリート建築の先駆者、木田保造。

明治18年、千葉県津郡に生まれる。17歳の時横浜に出、大工鈴木栄吉の徒弟として修業。そのころ鉄道院が募集した大工に応募し上京する。そして築地の夜間工手学校に入学、新しい建築を学ぶ。明治39年、大蔵省臨時建築部に雇員として就職し、4年ほど勤務の後、伊藤平佐衛門の東京出張所とつながりを持つようになり日本橋白木屋の改築を手がけるようになった。やがて人物を見込まれて大日本鉄道の藤田重造の娘と結婚、そのまますぐに函館に来て東本願寺別院の再建に取り組む。函館の街はよく大火によって変わってきたといわれるが、同別院も明治になってからだけでも、既に3回の大火に見舞われており、この工事は明治40年の大火で焼失した本堂の再建工事であった。たび重なる火災に壇家は悲鳴をあげ、「なんとか燃えない建物を」という多くの壇家の悲願は、帝室技芸員で寺院建築の第1人者といわれた伊藤平佐衛門を動かし設計、施工を伊藤が請負い、実際的な施工を木田保造が一任された。工事現場では、労務者も棟梁も、勝手の違うコンクリート工事に、さっぱり要領がつかめず、毎日のように工事ミスを起こしていた。またいざ、型枠を外す段になると皆尻込みし、ようやく外した後も、しばらく不安がって、誰もその下に行きたがらなかったという。この間も保造は、毎夜、仕事を終えてから監督や職人を集め、黒板にチョークで図を書きながらコンクリートの性質や堅牢さなどを熱心に教え込んだ。保造が北海道の鉄筋コンクリートの初期に、函館で労務者や市民の啓蒙に力を尽した功績には大きいものがある。東本願寺函館別院本堂は、北海道で初めてのコンクリート建築であるとともに、わが国最初の不燃構造の寺院建築でもあった。工事は明治45年7月3日から始まり、大正4年11月に完成した。
木田保造は、来道直後に手をかけた初のコンクリート建築に成功し、これを契機に不動銀行函館支店、拓銀函館支店、函館商工会議所本館、天主公教会、渡辺合名会社、大谷女学校、丸井今井百貨店、百十三銀行、函館貯蓄銀行、称名寺、日魯漁業函館事務所、函館製綱船具と大正初期から昭和にかけての函館市内の主な建築工事はほとんど彼の手になった。さらに函館にとどまらず全道各地の主要建築にも手を拡げていった。
函館におけるコンクリート建築は他に先がけて早かったが、一般市民のものとなるにはやはりかなりの時間を要した。しかし、函館にいっそう鉄筋コンクリート建築を押しすすめたのは、大正10年4月、2,141戸を焼いた大火であった。函館は当時、「市街地建築物法」の未適用地であったが、大火後、進んで同法の防火地区制度に準拠して火防線を引いた。商店街として賑わった「銀座街」は、この時、耐火建築の家屋群で構成され、他都市の注目を集めたのであった。

本文/「ステップアップ」vol.52(1993.7)より
(写真・参考/函館建設業界史「道南の槌音」)

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