函館市文化・スポーツ振興財団

川崎ヤエ (かわさき やえ) 1903年~2000年

函館の婦人記者第一号で、女性初の函館市議会議員として活躍し、明治、大正、昭和、平成を生きたキャリアウーマン、川崎ヤエ

明治36年12月2日、相生町4番地(現・末広町)に父・友次郎、母・ハツの四女として生まれる。父・友次郎は実業家平田文衛門(西洋金属製品の販売)に仕えた人で、後に独立し、雑貨屋を営む。書生が3人、子どもたちには一人ずつ乳母がつくような恵まれた環境であったが、明治40年の大火で焼き出され、羽振りの良かった川崎家もこれを機に、家運はしだいに傾いていく。
大正9年、北海道庁立函館高等女学校(現・道立西高等学校)本科卒業、翌年同校補習師範科を終了する。直ちに函館女子尋常高等小学校に奉職、教員生活のスタートをきり、函館女子高等小学校、常磐尋常小学校の教員を歴任する。教師のかたわら、社会教育活動に大きな情熱を傾ける。
昭和4年、当時の進歩的な女性が集まり創刊した「北方婦人新聞」に参加、翌年編集長となる。当時の既成婦人団体の低調さを嘆き、自主的婦人活動を提唱し運動を起こす。
昭和13年春には「新興女性会」(会員13名)を結成。女性自立の論陣を張るが会員3名が検挙される等により解散を余儀なくされる。しかし、名称を「女人サークル」と変え、圧力に屈することなく活動を続ける。同年8月には「七人社」を結成する。このように執拗なまでのサークルづくりは、新聞社の中に検閲課があった中で、自主的な女性サークルづくりをやっていこうとするヤエの気概を如実に示すものであった。
昭和15年、当時の社会情勢から教師をやめ、函館日日新聞社に入社。全国でも数少ない婦人の取材記者となる。
戦後混乱した時代、いちはやく渡島・檜山両支庁管内の全町村をくまなくまわり、婦人のための講演会を開催。函館においても社会学級等を通して婦人の啓蒙に努める。この精力的な働きかけにより、各地において新しい婦人団体活動が萌芽した。函館では、戦前の「大日本婦人クラブ」の解散をきっかけに、新たに「婦人クラブ」を結成、今日の婦人団体の基を築いた。また、芸術文化活動にも一生懸命で、終戦直後、劇団「自由座」を結成、すさんだ人々の心に明るい灯をともした。
その後、昭和33年まで函館日日新聞、新函館新聞、北海道新聞各社の記者として活躍する。北海道新聞函館支社編集部文化課長だった22年、函館市議選に当選し、函館で初の女性市議となる。46年まで通算4期16年、市議を務めた。また、函館市教育委員、函館市監査委員、函館家庭裁判所家事調停委員、函館地方裁判所民事調停委員、函館市公平委員会委員として活躍し、昭和46年藍綬褒章、51年勲五等瑞宝章を受章する。
平成12年3月26日、老衰のため死去。享年96歳。
一生を独身で過ごしてきたが、命がけの恋もくぐりぬけ、小唄、舞を趣味にするなど、なかなかの粋人でもあった。

本文/「ステップアップ」vol.230(2008.5)より
(写真・資料提供/関輝男、参考資料/「道南女性史研究」創刊号・第十一号、「地域史研究はこだて」第5号・第34号、「函館市史」)

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