函館市文化・スポーツ振興財団

初代 勝田弥吉(かつた やきち)(1837年~1906年)

勝田鑛蔵(かつた こうぞう)(1876年~不明)

二代目 勝田弥吉(1883年~1939年)

初代・弥吉方ら鑛蔵そして2代目・弥吉へと引き継がれた函館第一号の旅館・勝田旅館。

勝田旅館の初代勝田弥吉は、天保8年秋田県に生まれる。慶応2年、29歳の時箱館に渡り、函館政財界の立役者・杉浦嘉七に仕える。明治11年独立して東浜町(旧桟橋向かい)に旅館を経営。木造3階の造りで函館における第1号の旅館であった。明治15年、谷地頭に温泉旅館として勝田温泉旅館を開業する。
明治24年、旅館の隣地に建っていた杉浦嘉七の邸宅を譲り受け、同年木造4階建て300余名収容の大型の旅館に改築する。しかし、東浜町の勝田旅館は、40年8月25日の函館大火で焼失。後に函館駅の正面左側の角地に木造洋風の旅館として再開する。移転したのは、旧桟橋の汽船客より函館・小樽間の鉄道開通による利用客の便によるもので、2階洋風の旅館に建て替えられたが、大正・昭和の火災で焼失し、最終的には東川町に移り、昭和26年まで営業された。
谷地頭の勝田温泉旅館は、昭和9年3月21日の大火で焼失。その後、再建して平成2年頃まで営業していた。
勝田旅館は、明治11年の開業当時から、「各府県御旅館」「屯田兵司令部御定宿」「宮内省御定宿」「司法省御定宿」「陸軍省御定宿」「炭鉱鉄道会社御定宿」「北海道庁御定宿」等の一等旅館として繁盛した。
弥吉には実子がなかったので、甥の勝田鑛蔵を養子にもらう。
鑛蔵は明治9年、秋田県南秋田郡下井川村の農業勝田清蔵の5男として生まれ、明治34年に函館に渡る。弥吉の養子となり、弥吉を助け、業界きっての繁盛振りであった。
明治39年、弥吉が死亡するやその跡を継ぎ、推されて函館旅人宿組合長となり在任多年に及ぶが、後に組合を脱して専ら家業に努め、「客室の清雅にして待遇の懇切なるは函館第一等の旅館」と称せられた。
鑛蔵の長女・コウとハムづくりの職人カール・レーモンとの間にロマンスが生まれ、国際結婚が一般的ではなかった時代、多くの困難を乗り越えて2人のロマンスは実を結んだ。
大正2年、鑛蔵はもう一人の養子に二代目弥吉を襲名させ、駅前の勝田旅館を任せた。
2代目弥吉は明治16年2月10日函館に生まれる。旅館を経営する傍ら、大正3年に函館消防組に入り、7年には函館消防組頭に就任。以来、昭和14年の戦時警防団体制移行までの22年間組頭を務める。
組頭就任と同時に全国6大都市の消防体制を見聞し、翌年には市民の寄付金2万8千円を募り、全国に先駆けて米国アーレンスフォックス社製の消防ポンプ自動車1台を購入。さらに「人口1万人に消防車1台が普通である。」と唱え、翌々年に寄付金12万円を募り消防車5台を購入するなど消防機械の近代化に努め、市内150ヵ所に火災報知器を設置して迅速な通報体制を確立。さらには非常用水道や貯水池さらには消火栓等水利を整備するなど函館消防近代化に尽力した。
昭和14年3月没。享年56歳。

写真は2代目勝田弥吉

本文/「ステップアップ」vol.218(2007.5)より~NO.199
(写真/「函館紳士名鑑」
資料/「函館紳士名鑑」、「開道五十年記念北海道」、「函館大火史」、協力/函館市中央図書館)

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