函館市文化・スポーツ振興財団

加藤兵次郎 (かとう ひょうじろう) 1890年~1954年

男女が抱き合って踊る社交ダンスに対し、日本の道徳とは相容れないという批判が浴びせられていた時代、日本にダンスホ-ル営業のノウハウを導入し、ダンスによる国際親善をすすめるために世界をめぐった、ダンス界の開拓者・加藤兵次郎。

明治23年2月14日、地蔵町(現・豊川町)の「加藤呉服店」の長男として生まれる。
「加藤呉服店」は兵次郎の祖父にあたる初代慶次郎が明治初年に秋田から来函、12年に創業。父・二代目慶次郎が養子として加藤家に入って家業を拡大し、今井呉服店(現・丸井今井)や荻野呉服店などの老舗と並ぶ規模の呉服店となる。
兵次郎14歳の頃、東京商工中学に進学する。
明治40年兵次郎17歳の時、大火で実家が類焼したのを機に遊学中の東京から函館に帰る。
この頃、音楽仲間に誘われてアメリカ領事館に出入りするようになり、そこでダンスを覚え、美しい女性リナーと出会い結婚の約束をする。しかしこの恋は周りの反対とその背後にある商家の家族観により実らず、見合いにより八重という女性と結婚。この女性こそが生涯のパートナーとして兵次郎の理想の実現を助けていくことになる。
函館を、さらには日本を、海外での見聞にもとづいて近代化していくという目標が兵次郎にはあった。手始めに屋号をやめ、店名に世界に通用する日本語としてサムライを選択し、「サムライ呉服店」と改めた。
大正8年、デパート経営の研究視察のため欧米を歴訪。ニューヨークでダンスを習う。ダンスが国際親善の手段として、また国際社会で日本が孤立しないために有効であると考える。
大正9年、帰国。帰国後は欧米文化の紹介に努め、旅行中に収集した戦時ポスターを函館区公会堂(現・旧函館区公会堂)で展示。また近代化を推進するため道路改善運動にも着手し、活動写真上映会や音楽会を開催する。翌年、デパート方式の経営を推進。洋服・洋品の販売をてがけ、理髪部・喫茶部などを新設。社交ダンスを楽しむための「函館社交舞踏会」を結成し、12月には公会堂で外国人らと仮装舞踏会を開く。
大正12年、函館を離れ、大阪に転居する。翌年、難波新地のバー「コテージ」にアメリカ流ダンスホール営業のノウハウを紹介。大阪でダンスが大流行する。兵次郎は、以後ユニオン・ダンスホール、夙川ダンスホールの教師を歴任する。昭和5年、「宝塚会館」の設立に招かれ、以後マネージャー・教師として活躍する。翌年、2度目の洋行をする。スペインでタンゴのルーツを探し、モロッコやアルジェリアでもダンスを見聞する。
昭和9年、妻と共にアルゼンチンほか中南米諸国を訪問し、翌10年、帰国。チリのクエッカと、アルゼンチン・タンゴをもちかえる。
昭和13年、ダンスホールヘの一般女性客の入場が禁止される。兵次郎は「宝塚会館」を退く。
昭和15年10月31日の夜を最後に国内のダンスホールが閉鎖され、函館市の嘱託となる。
昭和26年、東京に転居して闘病生活にはいる。
昭和29年1月24日の朝、ダンス界の開拓者として世界をめぐった加藤兵次郎は逝去した。

本文/「ステップアップ」vol.198(2005.9)より
(写真/函館市史編さん室所蔵、資料/『地域史研究はこだて(第19号)』(函館市発行)、『にっぽんダンス物語・「交際術」の輸入者たち』永井良和著 、資料提供/井上秀樹)

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