函館市文化・スポーツ振興財団

唐牛健太郎 (かううじ けんたうう) 1937年~1984年

革命と酒を愛した60年安保闘争のシンボル、史上最年少の全学連委員長・唐牛健太郎。

昭和12年2月11日、父・唐牛鑑三、母きよの長男として湯ノ川村字湯倉町に生まれる。ただし、出生届は8月10日。湯ノ川国民学校から湯ノ川中学校を経て、函館東高校(現・市立函館高等学校)に進み、北海道大学教養部(文類)に入学する。
昭和31年7月、北大を休学して上京し、深川の印刷工場などで働く。10月、第二次砂川闘争に参加する。翌年の1月、印刷工場が倒産し、北海道に帰る。函館の材木屋に勤めたのち北大に復学する。10月、32年後期の北大教養部自治会委員長となる。33年2月任期満了で教養部自治会委員長を退き、4月北大全学中央委員会を再建し、その委員長となる。卓抜したアジテーターぶりで"北大に唐牛あり"と言われるようになる。
60年安保闘争の前年、21歳で史上最年少の全学連委員長に就任する。スポーツ刈りに甘いマスクでインテリ活動家とはかけ離れたイメージで、サッパリとした性格と誰からも好かれる人柄で、スター的存在になる。その後、幾多のデモを指揮し、逮捕・拘留を繰り返す。35年4月、教養部在籍期間を超えたため北大を除籍となる。7月、全学連第16回定期全国大会で獄中の身でありながら委員長に再選される。
フランス的なセンスにあふれた弁舌で、諸々の集会やデモにおける唐牛のアジテーションは一流のアイロニー(皮肉)に満ちて、実に魅力的だった。
昭和37年5月、共学同問題をめぐって革共同全国委を脱退し、高校の先輩で政治運動家の田中清玄が社長を務める丸和産業に入社する。
昭和40年2月、太平洋をヨットで単独横断した堀江謙一とヨット製作会社「堀江マリン」を設立。43年1月、新橋に居酒屋「石狩」を開店。
昭和46年2月、紋別に居を定め、漁師となる。48年11月、母が病気のため函館に移住する。
昭和57年4月、第一回羽生病院創立準備大会に参加し、医療活動に感銘を受ける。札幌徳洲会病院設立の基礎を固める。
昭和58年2月16日、沖縄南部徳洲会病院で検査の結果、直腸癌と判明し、東京築地のがんセンターに入院。手術は成功したように見えたがリンパ腺に転移し、59年3月4日、帰らぬ人となった。享年47歳。
無職・無名の男が癌で死んだ。各新聞は、それを大臣や大実業家の死と同じように大きく取扱い、週刊誌は、彼の死に多くの頁を割いた。
みぞれまじりの空のもとで唐牛健太郎の告別式はとり行われた。「人々は"ひとつの時代"に別れを告げた」と新聞は報じた。

本文/「ステップアップ」vol.281(2012.8)より
(写真/「唐牛健太郎追想集」、資料 「唐牛健太郎追想集」唐牛健太郎追想集刊行会発行、「20世紀日本人名事典」日外アソシエーツ(株)編集、取材協力/函館市中央図書館)

このウェブサイトに掲載の文章・イラスト・写真・音声その他のコンテンツの無断転載を禁じます。
© Foundation for Culture and Sport Promotion in Hakodate