函館市文化・スポーツ振興財団

神田 光彩 (かんだ こうさい) 1909年~1998年

北海道の映画発祥の地・函館で、映画館の看板絵師として生涯現役を通した神田光彩。

明治42年12月7日、宝町(現・宝来町)に父直三郎、母千代の6男・2女の6男として生まれる。本名は保男、光彩は日本画の画号。
大正13年、日本画家を志し15歳で京都の美術学校・京都絵画学校日本画廊部山水科(現・京都芸大)に進学するが2年後に母を亡くし中退して生地・函館に戻る。そして兄が営んでいた看板業・神田精華堂に入社、ここから映画との付き合いが始まる。
昭和9年、独立して神田美術社を設立する。以後、無声映画時代から映画が斜陽化するまでの40年間、映画の看板一筋に描いてきた。
ポスターやチラシがなかった時代、映画館の大きくて色彩豊かな看板は、お客さんを招き込む顔のようなもので映画の中身はどんなものか、看板の出来が観客動員を大きく左右した。その昔は文字だけの看板だったが絵を描くことによりお客さんが増えていった。宣伝などなかった時代には光彩の絵を目安にお客さんが映画館を出入りしていた。
映画隆盛時代の昭和20年から30年代には、市内に25もの映画館が建ち並び、光彩は6館の注文を受け、1日に5~6枚の看板を仕上げ、ひと月に200枚描くことも多くあった。
時代劇からウエスタンまで手がけた映画は数千本にのぼる。日本画の素養を生かした繊細なタッチと彩色で、”神田光彩“の名は全道に知られていた。札幌の看板職人が視察に来たり、青森の映画館から注文があって出向いたりとこの頃最も脂が乗り切っていた。
仕事場のガラス窓には人だかりができ、陽の光が入らず昼間でも電気を点けて仕事をするほどだった。雨の日は傘を差してまでして見に来るので、人を入れないようにカギをして仕事を続けた。絵と字の両方を描く人はいなかったので、責任上映画が替わる時は倒れてでも仕上げなければならなかった。誰かに替わってもらうという仕事じゃなくあくまでも自分でやらなければならなかった。徹夜の連続で1日平均4時間くらいしか睡眠時間がとれず、朝起きて仕事につき、晩酌をして寝るの繰り返しで体のことなど考えたこともなかったという。
数千本の看板を描きながらも、同じ看板に重ねて描いていくので光彩の仕事としてはほとんど残っていない。
昭和40年代に入って、映画館が1つ減り2つ減りして50年には映画館の仕事はやめた。町の華だった手書きの大看板の姿も少なくなり、看板屋の絵筆が客を呼ぶ時代は終った。映画看板を描くのはやめたが、仕事で筆を取らぬ日はなく、生涯現役を続けた。
昭和52年、市技能功労者として函館市長表彰、61年、産業貢献賞として北海道知事表彰、平成5年、社会貢献として法務大臣貢献賞、そして6年、勲六等端宝章を受賞した。
平成10年、1日も筆を持たない日はなく、一生を筆1本に託した神田光彩は臓器不全のため90年の生涯をとじた。

本文/「ステップアップ」vol.138(2000.9)より
(写真/神田州啓、資料/「ほのぼのけんこう探訪」静岡第一テレビ、「旅わくわく」中部日本放送、「北海道新聞」昭和61年2月15日・昭和62年2月18日、 「請売新聞」昭和61年3月19日・平成8年1月21日「朝日新聞」昭和61年2月20日、取材協力/神田州啓)

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