函館市文化・スポーツ振興財団

亀井 勝一郎 (かめい かついちろう)  1907年~1966年

プロレタリア文学評論家として活動しながらも、第1評論集「転形期の文学」刊行を機に「日本浪曼派」に参加。転向者としての再生、日本回帰をテーマとした評論家・亀井勝一郎。

亀井 勝一郎

明治40年、函館貯蓄銀行の支配人だった父喜一郎、母ミヤの長男として元町に生まれる。大正2年、弥生小学校に入学。メソジスト派教会日曜学校に通い、アメリカ人宣教師ドレーバル師一家より英語の個人教授を受ける。

函館中学校、山形高等学校を経て15年、東京帝国大学文学部美学科に入学する。翌年「新人会」会員となり、マルクス・レーニン主義の文献を耽読し、大森義太郎に親しく指導を受ける。社会文芸研究会、共産主義青年同盟に加わって活動し、大学の講義にはほとんど出席しなくなる。武田麟太郎、藤沢桓夫、長沖一ら先輩会員とともに研究、政治活動に従う。

昭和3年、大学在籍の意味を認められなくなり、自発的に退学する。同年4月、治安維持法違反容疑で札幌のアジトで検挙され、東京市ヶ谷刑務所に収監される。

昭和5年、喀血して市ヶ谷刑務所の病監に臥床する。「非合法的政治活動には向後一切関与せず」との転向上申書を書いて、秋釈放となり、1週間後に函館に帰り療養する。2年半の獄中生活で、新人会時代に読めなかった文学書に親しみ、「ゲーテとの対話」に感動。獄中記に、「独房は学園だった」と記している。

昭和6年、上京してプロレタリア文学評論家としての再出発の準備をし、翌年日本プロレタリア作家同盟に加わる。「創作活動に於ける当面の諸問題」を手はじめに旺盛な評論活動を展開し、9年創刊の「文芸評論」「現実」(第1次)の中心となる。第1評論集「転形期の文学」を刊行したことからプロレタリア文学より遠ざかり、10年創刊の「日本浪曼派」に参加し、太宰治、保田与重郎らと知り合う。

昭和13年9月、転向者としての再生をテーマとした「人間教育」で第4回池谷信三郎賞を受賞し、河上徹太郎、林房雄を介して「文学界」の同人となり、小林秀雄、中村光夫らを知る。10月、岡本一平・かの子夫妻を知り、「法華経」「維摩経」を読みはじめる。一方、内村鑑三、倉田百三の著書に親しむようになる。このころから、日本回帰を主題とした評論が多く、「東洋の愛」「捨身飼虎」などを著して古美術、仏教への関心を深めてゆく。

昭和17年、「文学界」が中心となった「近代の超克」座談会を河上徹太郎と企画し、日本文学報国会評論部門の幹事となる。「大和古寺風物誌」「親鸞」は太平洋戦争中の代表作。「日月明し」を刊行したあと、第二国民兵として軍事教練をうけているとき敗戦を迎え、戦後は文学者としての戦争責任を問われる立場に立たされたが、「陛下に捧ぐる書翰」「現代人の遍歴」などで評論界に復帰し、日中文化交流協会理事として日中友好に貢献する。

昭和40年3月、「日本人の精神史研究」ほかにより菊池寛賞を受賞。同年11月、芸術院会員に任命された。

昭和41年11月14日、食道がんが胃および肝臓に転移し、東京築地がんセンターで永眠。享年59歳だった。昭和44年、青柳町に文学碑が建立された。

碑文は自筆によるもので、「人生邂逅し開眼し瞑目す」と記されている。また、元町に武者小路実篤書「亀井勝一郎生誕之地」の碑及び、「東海の小島の思ひ出」の一節を刻んだ文学碑が建立された。

函館ゆかりの人物伝