函館市文化・スポーツ振興財団

加賀 栄治 (かが えいじ)(1915年~1998年)

「学に常師なし」「学に常学なし」と厳しく自らと対峙し、中国古典史の定立に心血を注ぎ続けた中国古典学者・加賀栄治。

大正4年10月3日、秋田市土崎港町にて、回船業を営む父清沢金太郎と母チエの三男として生まれる。11年4月、土崎尋常高等小学校尋常科1年に入学、昭和3年、同校卒業。同校高等科、秋田県師範学校本科を経て、昭和10年3月、秋田県公立小学校教員に任じられ、秋田市土崎第二尋常高等小学校訓導に補される。4月に短期現役兵として歩兵第十七連隊に入営。8月、陸軍歩兵伍長として現役満期除隊する。
昭和17年10月、東京文理科大学漢文学科選科に入学する。19年3月28日、函館の海産商、加賀與吉氏の長女摂子と結婚し、加賀家の婿養子となる。20年10月、東京文理科大学漢文学科本科編入。21年9月に卒業、文学士となる。
昭和21年12月、文部教官に任じられ、北海道第二師範学校(現・北海道教育大学函館校)勤務となり函館で生活することになる。
昭和25年、学内有志と函館人文学会を創立。機関誌「人文論究」発刊。翌年、北海道学芸大学函館分校(現・北海道教育大学函館校)教授となる。
この頃、加賀は研究者として着々と業績を積んでいき、中国古典解釈史という旗印を掲げ、歩んでいく。加賀は「学門、とくに人文の学は人間の生の自覚の論現的体系的検証にほかならない」という。この人文の学の究明に「中国の古典、その古典を規範としていとなまれた、中国人の精神生活の歴史」を対象にした。
昭和37年、「魏晋経書解釈の研究」により、京都大学から文学博士を授与される。加賀の業績を好意的に評価したのは京都大学の教授だった。25年秋に京都大学で開催された日本中国学会の大会に参加し、京都大学の学風の開放性・徹底性に強く心ひかれてやまなかったという。そして、京都大学の教授、そこにつながる学友たちに鍛えられ、自らの学問を形成していった。
「先生は惜しみなく学生のために時間を費やした。先生は怖かった。講義の合間に訳読があり誤解だらけのノートは直ちに真っ赤になった。原典の引用をごまかして読むと雷がおちた。」と当時の学生は述懐する。時には夜まで続いた。
加賀は人間を愛し、酒を愛した。斗酒なお辞せず、談論は尽きることはなかった。だが、帰宅の後は読書を務めとした。ぐっと眠り、焙じ茶を飲み酔を覚ます。この時、ものがよく頭に入ったという。加賀は人文の学の究明を読書に求めたのであった。
昭和47年、全国社会教育者関係海外視察団団長としてヨーロッパ、アメリカを訪れる。52年、函館市民友好訪中団団長として中国を訪問。この年の11月に函館市文化賞を受賞した。
昭和54年4月1日、停年により北海道教育大学を退官、名誉教授の称号を授与され、また、退官を記念して「加賀博士退官記念中国文史哲学論集」が刊行された。
昭和55年4月、文教大学教授に就任、上京する。63年11月3日、勲三等旭日中綬章を受章。
平成10年11月21日、「学に常師なし」「学に常学なし」、”学問研究は自分との闘争で、自分を鍛練するもの“。学者・研究者として、しつかりと現実を見据え歩み続けた加賀栄治は闘病の末、83年の生涯を閉じた。

本文/「ステップアップ」vol.139(2000.10)より~NO.127
(写真・資料/「函館国語○」第15号・北海道教育大学・函館国語会編集兼発行、「燕山楚水」加賀栄治著・加賀栄治先生をしのぶ会発行)

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