函館市文化・スポーツ振興財団

ゴロヴニン Vasilij Mikhajlovich Golovnin 1776年~1831年

箱館・松前に幽閉中、知識人にロシア語を教え、翻訳を助けるなど、日本人のロシア語研究に貢献したロシアの海軍少佐、ゴロヴニン。

安永5年(1776)4月19日(ロシア暦4月8日)、リャザン県に生まれる。海軍士官学校卒業後、イギリス海軍に留学。
文化8年(1811)、ディアナ号艦長として北太平洋の調査測量とオホーツクへの武器弾薬輸送のため、クリル(千島)列島へ向け出航し調査を始める。択捉・国後両島を測量中、松前奉行支配調役・奈佐瀬左衛門政辰に捕らえられる。この事件は、文化3年・4年にサハリン(樺太)南部・択捉島・利尻島などを急襲したロシア領アメリカ会社付海軍士官フヴォストフとダヴィドフの蝦夷地乱妨に対する報復であった。
ゴロヴニンら8名は捕縛された翌日、ただちに根室に移され、陸路を護送して箱館に向かう。箱館に着くまでに1ヶ月近くを要した。大野から2、3キロ来たところで手綱が解かれ、道路の両側に並んだ多数の群衆の間を、箱館市中に引かれて行く。見物人は極めて静粛で、誰一人けわしい顔つきや軽蔑憎悪の色を浮かべたものもなかったという。そして収容された獄舎は、野原の高台の上に建てられたぞっとするような光景の所にあったが、その窓からは津軽海峡の一部や、その対岸の日本本土を見ることが出来たという。
箱館では50日ほど監禁されていたが、その間、アイヌ語通詞・上原熊次郎と漂流クリルアイヌ・アレキセイとの相互通訳を行う。箱館詰吟味役・大島栄次郎が数回糾問ののち、福山(松前)に移され再び監禁される。
ゴロヴニンは松前・箱館において、上原熊次郎のはかにも足立左内・馬場佐十郎(貞由)・間宮林蔵・村上貞助らの知識人に接し、ロシア語およびロシアの国情を伝え、同時に日本の学問の水準、国内体制、習俗、民族性などについての知識を得る。日本幽閉中に体験、見聞したことを記録した手記「日本幽囚記」はこうした見聞が克明に記録されている。
ゴロヴニンが箱館在獄中もっとも日本人に悩まされたのは、役人や獄卒に扇面や紙に何か書いてくれと頼まれたことで、時には一度に10本も20本も扇子を持ち込んでくる厚かましいものもいたと、その著書に書かれている。
松前と箱館に2年3ヶ月余りの幽閉生活を送る。
文化9年、副艦長リコルドは、観世丸船主・高田屋嘉兵衛と水主4名を捕らえてカムチャツカへ連行したが、嘉兵衛の沈着な善処に感銘して、10年ゴロヴニンらの釈放を条件に日本側と和解し、ゴロヴニンらは9月26日釈放される。
天保2年(1831)7月11日(ロシア暦6月29日)病没。55歳だった。

本文/「ステップアップ」vol.243(2009.6)より
(写真/「日本幽囚実記」より、参考資料/「函館市史」、「国史大辞典」、「函館・道南大事典」、取材協力/函館市中央図書館)

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