函館市文化・スポーツ振興財団

梅津 福次郎 (うめづ ふくじろう)1858年~1942年

天賦の商才をもって刻苦勉励し、一代にして巨万の財を築き、浄財を喜捨し、幾多の事業を援助した真の実業家・梅津福次郎。

安政5年2月4日、梅津友三郎の次男として常陸国(ひたちのくに・茨城県)久慈郡太田村下井戸(現・太田町)に生れる。
明治2年、13歳の時、太田村の醤油醸造業菊池方に奉公に出、近郊に行商して商売の途をおぼえ、真面目な働きぶりで主家の信用を得る。
明治10年、父を亡くしたが、北海道の根室の好況なることを聞き、13年青雲の志をいだき、新婚まもない妻ヤエを伴って僅かな旅費を懐に、横浜港を出帆。海上三昼夜を費やして函館の旧桟橋に着く。何日ぶりかで昼食をとった福次郎は、その昼食代の高いのに驚くが、「この高値は町に活気が溢れている証拠だ。これは前途有望だ。根室と思ったが、わが大業をなす所はこの函館だ」と函館を永住の地と決める。
翌年、西川町の露地裏に八畳一間の家を借り、納豆売りを始める。その後、天秤棒をかついで塩魚類を売り歩く。後、小店舗を借り、食料品雑貨類を商ない、酒類の小売を始めたが、店は妻にまかせ、自身は酒の行商に励む。
明治19年、行商をやめ、願乗寺(現・西別院)前に移転して、梅津の看板を掲げ、酒類、食料品、雑貨を売る。福次郎の商売のコツは「場所に目をつける」ことだった。店舗拡張を思い立った時、「あんな大きな店を借りて、梅津という男は正気なのか」と人々の嘲笑をかった。それから数日後、末広町銀座通りの角地に「梅津商店」の大看板が掲げられた。明治23年、33歳のときであった。これが開運の端緒となった。
明治25年、道内各地に進出。商売はますます繁榮し、区内の一流店となった。35年ごろから、エトロフ、千島、樺太に進出、販路は東北、北海道、千島、樺太の広きにおよび、地方に出ては同業者中、1、2位を争うまでになった。
「火事は函館の名物」といわれるほど函館は大火が多く、明治40年、大正10年、昭和9年の3度の大火で裸一貫になった。しかし災厄に遭っても不断の用意があり、次善の策を考え、直ちに実行に移した。大火が鎮まると、すぐにバラックの貸家を作り、羅災した得意先に食料品を供給した。焼け野原の中に立っても独自の才腕を振るい、得意先は増加の一途をたどった。このようにして、福次郎は時代を達観し、天賦の商才をもって刻苦勉励し、一代にして巨万の富を築いた。
福次郎は常に報恩感謝の念を忘れず、ものに触れ、事に発して、教育、公共の事業に寄与し、自治の振興につくした。とくに、育英事業に関心をよせ、函館高等水産学校(北大水産学部の前身)の設立のために、また、函館市立中学校(現・束高校)の建設にあたっては、率先して建設費を寄付した。
昭和17年6月23日、明治末期から大正にかけて区会議員等を歴任するなど名実共に実業家として活躍した梅津福次郎は、85年の崇高な生涯を閉じた。
「人には容易に真似の出来ないことをして、体の続く限り、精魂を傾けて、働けるだけ働く」70年間一貫した福次郎の信条であった。

本文/「ステップアップ」vol.165(2002.12)より
(写真・取材協力/梅津佐助、参考資料/「梅津福次郎小伝」井上一著、「梅津福次郎翁立志伝」富岡福壽郎著、「常陸太田市の歴史散歩」武藤彬発行、「函館のルーツを探る肖像画集」社団法人函館文化会刊行、「函館名士録」深井清蔵発行人、「函館紳士名鑑」岡田平助発行兼編集、「函館人物誌」近江幸雄著)

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