函館市文化・スポーツ振興財団

ジョン・バクスター・ウイル 1840年~1920年

幕末から明治初期にかけての日本の北方地域における航海術と商業発展の開拓者であり、日本と中国の交易、航海に寄与したジョン・パクスター・ウイル。

1840年(天保H年)1月12日、英国スコットランドのダンディー市に生まれる。マックスウエル・カーク・スクールに学び、11歳で学校を去ると倉庫会社に務める。
13歳の時、見習い水夫として憧れの船乗りになる。6年余りは、物資を積んで主としてヨーロッパとアメリカ東部の港を廻る交易の仕事に従事する。ウイルと東洋、とりわけ日本との関係を決定づけたのは、1859年(安政6年)、上海に本社を置く西太平洋商会の持ち船で上海を目指した航海だった。翌1860年(安政7年)、この船で上海から箱館に向かい、箱館にその第一歩を印す。
当時、箱館にはアメリカ、イギリス、フランス、ロシアと4つの国の領事館が置かれており、箱館は日本の港の中では最も整備された港の一つだった。
その後、ダンディーに戻ったウイルは、二等航海士の免許を取ると、西太平洋商会の支配人として箱館に店を構えるブラキストンのもとに、大型製材鋸やボイラー等を運ぶ。
1867年(慶応3年)、上海で船長の資格を取得し、活動の本拠地を上海から箱館に移すと、ブラキストン・マール商会の船長として日本と中国、そして日本各地の港を行き来し、物資や人の運搬をする。
その後、同商会の勢いが衰えたため三菱会社や三井物産会社に入社して雇われ船長として働く。
1899年(明治32年)、函館のイギリス領事館の警保宮となり、隠居生活に入るまでの30年間は、南はサイゴン(現・ホーチミン)から北は樺太まで、帆船を操り、米や石炭、時には移民を乗せて、主に日本近海を精力的に動き回る。
1907年(明治40年)の函館大火の前後には、イギリス領事館の別館で住み込みの留守番役として務めたこともあった。ウイルは背が低く「三尺船頭」のニックネームで町の人達に親しまれた。ドイツ領事のルードウィツヒ・ハーバーと親しく、ハーバーが殺害された際には現場に駆けつけ事件の詳細を書き残している。また、1877年(明治10年)11月にロシア軍艦アレウト号が瀬棚町で難破した際には、引き上げ作業を行い函館港まで曳航している。
1920年(大正9年)6月9日、悪性の肺炎により函館で死去。
ダンディーの製鉄所の技師で、後函館に渡り仲浜町で倉庫業を営んだスコット、船舶に食料品を売る商人で、牛肉商のビュウイック、船大工から英国領事館の会計士となったトンプソン、イギリス人商人のウイルソンなどの友人たち共に、海を望む函館の外人墓地に眠っている。

本文/「ステップアップ」vol.282(2012.9)より
(写真・取材協力/函館市中央図書館、資料/「ウイル船長回想録」杉野目康子訳、「ジョン・ウイルの回想記」當作守夫訳)

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