函館市文化・スポーツ振興財団

植木 蒼悦 (うえき そうえつ)  1896年~1982年

自らの姿を河童(かっぱ)に託し、「河童画伯」の愛称で親しまれた画聖・植木蒼悦。

植木 蒼悦

明治29年4月10日、函館市にて植木善作とワイの長男として生まれる。本名悦郎。

39年、母ワイ死亡後秋田市の叔父高桑馬之助に引き取られる。蒼悦10歳の時であった。(秋田県立秋田中学に入学。書・画・漢書に精進した。十和田湖を描きに来た大下藤次郎を秋田の宿に訪ね、この時師弟の緑を結んだ。

大正2年、秋田中学を卒業。明治大学、並びに日本水彩画会研究所に入学、洋画技法を学ぶ。翌年、第1回二科展に油彩画で入選、次の年も同じく入選したが中央画壇への出品はこの2回で終える。

5年、父の事業失敗のため明治大学を中退、日本水彩画会研究所を退所し函館に帰る。独学自活のため、函館税関鑑定課に勤務、文学・詩歌・哲学を精力的に学ぶ。

昭和3年、室蘭・小樽転勤後函館に戻りこの年の9月、藤本鎌次郎の長女ヤサと結婚する。同月門司税関鑑定課に転勤となる。8年5月、作画に専心するため依願退官し函館に帰る。以来、東洋画技法の研究に没頭、画生活に入る。

11年12月、山形県米沢市に転居。13年、丸井今井テパートにて初の個展を開く。この時、蒼悦42歳であった。10歳の時より居を転々とした蒼悦は昭和15年44歳にして、米沢市より函館に帰り以後永住することになる。この年、函館の絵画団体「赤光社」に入会、会員となる。

22年9月、函館大谷高等学校美術科担当講師として再職し、主に書道を教える。翌年、同校の60周年記念行事として、棒二森屋デパートにて日本画個展を開催する。画人にして博学多識の植木蒼悦は、函館の俳句団体「丘の句会」に入会。その後東京の俳句団体、佐々木有風主幹の「雲」に入会し、佐々木有風の指導を受ける。生涯に残した作品は1800句にもおよぶ。

”植木君は画を始めてから30数年、唯一絵画芸術に精進して、官職を棄て、生活を抛り出して、すべての物を犠牲にし、清貧に安じて、ひたすらに内面の真実を探求し、深い美の表現の欲求に、初老の声を聞く56歳の今日なほ人知れず苦しんでいる。

殊に彼は高介絶俗、古人を以て自ら期し、人をも自分をも容易に許さぬ峻厳な性格の持主である。画人にはめずらしいほどの博学多識、書画篆刻より、詩歌俳諧に至るまで、すべてこれを能くせざるはない。

ことに画は、山水を善くし、花卉を善くし、魚介を善くし、道釈人物を善くし、鬼図を善くし、往くとして善くせざるはない。殊に河童図に至っては、幽怪の相、冷艶の熊、調笑の情、画面に溢れて、冷気を覚えしむるものがある。”(八幡関太郎筆)

世間付き合いを避け、玄関を開けた障子には「うるさきものは来客なり」と書きつらねてあり、障子を開けると「とは云うもののお前ではない」というカラクリがあるなど、ユーモア精神も持ち合わせていた。

昭和57年、「無名・貧窮・孤独」を愛し、生涯「反骨」を貫いた植木蒼悦は直腸ガンのため稜北病院で86歳の生涯を止じた。

昭和44年、函館市文化賞受賞。

昭和57年、医師工藤豊吉氏により長万部町に作品100点を展示する「植木蒼悦記念館」が開館した。

函館ゆかりの人物伝