函館市文化・スポーツ振興財団

内川 源作 (うちかわ げんさく)1880年~1938年

渾身熱血の奮闘を以てその半生を彩れる船舶界の健児。

明治13年9月17日、父室谷源兵衛、母千代子の二男として豊川町に生れる。父源兵衛は越後の人で、北海道での航商を企て9年に船舶3隻資金3万円を携えて函館に渡り船舶業を経営するが、翌年越後直江津に航行の際、金華山沖合にて台風に遭い2隻の船舶は沈没、巨萬の損失を招く。これにより、家運は衰え再興叶わず24年、父源兵衛は病により他界する。
明治26年、源作13歳の時、高等科を3年で中退し、自立するため小樽へ向かう。餅売から建具屋の見習いを2年するが、年少にして漂浪の境にある源作を不憫に思った母千代子は函館に呼び戻す。源作は意を転じて船大工になる決意をし、真砂町の天神と称する船大工の徒弟となり忠勤精励3年、造船業の職工の技術を得る。その後、金森造船所に入り益々その技を研鑽し、19歳にして造船術の奥義を極めるため上京。品川の緒明造船所の技師となって造船業に従事する。三河の大濱造船所、神戸川崎造船所、大阪鐵工所を経て源作の技術は益々進歩し、遠くアメリカに思いを馳せるようになり、渡米の準備をする。
明治32年4月9日、外国船に搭乗し巴港から渡米の途に就く。5月16日の朝ゴールデンゲートを横に見つつサンフランシスコの埠頭に着く。直に造船所の職に就きたかったが、ユニオンのストライキが勃発したため、一時ボーイの職に就く。
以後、鉄道工夫頭となり精励1年半の歳月を過ごす。後に、鉄山に150人の人夫を伴い労働に従う。源作の奇才頓智は大いに鉱主の信認する所となり1年半奮励で巨利を博す。コロラド港のデンバーの近郊に50エーカーの地を得、砂糖大根を栽培したり、ウエスタンシュガーコンバニーのストライキの際同社より砂糖大根の小作を嘱託せられて栽培に従ったりと順風満帆であったが、ヘール(ひょうやあられ)の襲来に遭い事業は損失を招く。やむなくデンバーに還りネブラスカ港のオマハ市の牛肉鑵詰製造所へ120人の邦人労働者を率いて労役に就くこと1年、多少の貯えを得て再びデンバーへ還り玉突場を開始する。この時ホワイトゼテーと称するパークの創設と同時に、純日本式の茶店を開業する。明治42年にはシアトル、アラスカなど6ヶ所に出店し、日本村の一角に於いて玉廻しを興業し利潤を得る。しかしデンバーの茶店は失敗し倒産、日本人の少ないフェックス市で飲食店を開店させ成功を納める。
明治42年2月、函館に帰着し、直ちに末広町に於いて船舶糧食品買込所に投資し、同年4月自営となる。その後、樺太千島に於いて漁業を経営し、鉱山事業にも手を染めるが、時運利なく事業は失敗し全て閉店する。
友人の同情援助により硫黄の先物を買収する。機鋒適中し得た利益で船舶のチャーターを開始、その利潤で大正6年5月巨費を投じて汽船直江津丸を購入する。しかし、不幸にも北日本会社の京城丸と衝突し沈没。同年10月幸明丸を購入、尚美代丸、及香取丸を傭船として海運業を始める。
健闘奮躍機運に乗じて巨萬の富みを得、遂に航運界の寵児と謳われる。堅忍志操と非凡の奇智卓才をもって成功した源作こそ俊英中の偉大なる人物であろう。
昭和13(1938)年1月初旬から東雲町の佐々木病院に入院していたが、治療の甲斐もなく25日、病没した。

本文/「ステップアップ」vol.159(2002.6)より
(写真・資料/「開道五十年記念北海道」鴻文社発行、昭和13年1月26日付け「函館新聞」)

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