函館市文化・スポーツ振興財団

小山内龍 (おさない りゅう)  1904年~1946年

日本の漫画史・児重文化史・装丁・挿絵の文化史・昆虫学に足跡を顕著に残した北の絵本作家・小山内龍。

小山内龍

明治37年6月11日、函館市大縄町に生まれる。本名は澤田鉄三郎。名の示すとおり、三男であり、三男二女の末っ子であった。筆名の小山内は母方の姓で、龍はおそらく自分の干支によるものと思われる。

大正8年、若松尋常高等小学校を卒業後、下駄屋に奉公に出る。10年、外国航路の貨物船の船員となって各地を転々とする。15年、心臓発作で船を降り、東京で転々と職を変えながら独学で絵の勉強を始める。この頃、アナーキストの運動に参加し、翻訳家であり思想家の辻潤と知り合う。

幼児期から画才があり、昭和6年、「アサヒグラフ」の懸賞漫画に入選。朝日新聞社から児童文学賞を受け、漫画家としてデビューする。7年、朝日新聞文化部の紹介で、横山隆一、杉浦幸雄、近藤日出造らの「新漫画派集団」に加わり、次いで当時の漫画界をリードしていた函館出身の岡本一平に師事する。

昭和9年、東京朝日新聞に横山隆一原作の「新イソップ物語」の連載を始める。12年ころから雑誌「コドモノクニ」を舞台に児童文学作品を手掛けるようになる。

昭和13年、日本の漫画家6人が満州から招待を受け、龍もその一人としてーヶ月間、満州の漫画旅行をする。15年、朝日新聞から2回目の児童文化賞を受ける。

著名な絵本に「山カラキタクマサン」「一茶絵本」などがあり、挿絵の仕事も数多く、また、エッセイストとしても「黒い貨物船」「昆虫放談」などを執筆する。

昭和17年に書かれた「黒い貨物船」は、函館の北洋漁業全盛の華やかな様子を描いた自伝的名作である。一方、「昆虫放談」は、日常的な虫との付き合いを描いており、「オール女性」誌に連載したところ好評を博し、戦中戦後を通じ何度も復刻版を重ねた。作品の中には大野町(現・北斗市)も登場し、NHKラジオでは3回も朗読された。昆虫収集家にとっては座右の書物で手塚治虫や北杜夫に少なからぬ影響を与えたという。

昭和20年4月の空襲で東京の家を焼失し、7月に家族を引ぎ連れて大野町に疎開する。

動物や特に昆虫の生態を研究して、昆虫による漫画の世界を深めようとしたが、持病の心臓病が悪化して、昭和21年11月1日、2人の子どもを残して「残念、残念」と言い残して亡くなった。享年42歳。

函館ゆかりの人物伝