函館市文化・スポーツ振興財団

大山 マキ (おおやま まき) 1868年~1958年

明治・大正・昭和と(丸南)そば屋の暖簾を守り続けた初代経営者大山マキ。函館におけるそば屋の先覚者。

明治元年、大山千三正吉と糸との間に長女として生れる。大山家は松平家の家臣で、千三正吉も若い頃、勤王の志士と交わったこともあったが、維新・藩政廃止のため、東京・麹町で酒造業を営んだ。しかし、武士の商法で経営に失敗。西南戦争後、漢学塾を開いたが、戦争で負った傷がもとで明治16年死去。母も後を追うように死亡。この時マキは15歳だった。
両親を失ったマキは叔父南宇八に引きとられたが、この叔父は東京では1軒しかない人入業者で、その印半纏が(丸南)であった。
彼女は産婆学校に入る一方漢学塾にも通い教養を身につけていった。これは宇八の「女は身に芸をつけねばならぬ」という信念によるものであった。しかし宇八もまた明治19年に急死したため、一時見習奉公に出たりもしたが、叔母タカの世話で18歳年上のそば職人柘植(つげ)春吉と見合結婚をすることになる。
2人は神田錦町に居を移し、そば屋をはじめるが、次第に経営に行き詰まり、使用人にも暇を与え、質屋ののれんをくぐったりもしたが遂に失敗、春吉の知人である函館の柳川熊吉を頼ることになった。
熊吉は、箱館戦争後、榎本軍の戦死者の遺体が放置されているのを見かねて、実行寺の住職と共に約800人を埋葬したという人物で、明治23年来函した2人を快く受け入れてくれた。2人は熊吉から25円を借り入れ、そば屋を起こすことになるが、これが(丸南)そば屋の始まりであった。東京にいた頃のマキはお嬢さん育ちで水仕事もしたことが少く、北海道の自然条件は厳しかったが、ただ黙々と働き、次第にひいき客も多くなり使用人も3人使えるようになった。当時そば1杯1銭5厘(現在の約1,200円)で高価な食べ物であった。マキは懸命に働き、明治34年の大火に店を焼失し、途方にくれることもあった。夫春吉は酒とバクチにふける毎日を過ごしていたが、この年の7月に「今度なおれば酒も勝負事もやめる」と言い残し、脊髄病で死んだ。この時マキは34歳であった。
春吉の死後もマキはそば屋を続け、幾多の試練もあったが、駅前に2階建の店を開店、まだ待合所のない鉄道の格好の地として、大いに賑わうことになる。明治39年には懸命にマキを支え働いてくれた使用人浅野三治郎に(丸南)支店を持たせ、その後も忠実に働いた使用人に次々と暖簾を分けてやり、10支店が開店するようになり(丸南)一族会などもつくった。
マキには子供がなく、東京の南三喜三郎からシンをもらい養女にし、シンは2代目を継ぎ、長女の千代は3代目になって(丸南)の伝統を守り、現在4代目の信義氏がしっかりと(丸南)の味を受け継いでいる。
大山マキは昭和33年2月2日、91歳で函館におけるそば屋の歴史とも言うべき生涯を閉じた。

本文/「ステップアップ」vol.53(1993.8)より
(写真・参考/「ある女相続者の生活史・(丸南)大山マキ自伝」大山信義氏所蔵)

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