函館市文化・スポーツ振興財団

大桃ゑきえ (おおもも ゑきえ)  1912年~1987年

裸一貫で夫と共に温泉旅館「竹葉」を興し、義太夫lこ情熱を注いだ湯の川温泉の名物おばあちゃん・大桃ゑきえ。

大桃ゑきえ

明治45年1月10日、青森県で生まれる。15歳の時、函館に渡り芸妓として名を上げる。芸事として始めた義太夫に魅せられ、本格的に語りを竹本広太夫師匠に、また三味線を野沢吉時師匠に習い、野沢吉春を襲名する。義太夫としては函館で初めての名取りとなる。

昭和21年、当時、一面が畑であった湯川の地に、民家を譲り受け、夫・実(59年、73歳で死去)と年老いた母とともに移り住む。隣にあった湯川の老舗旅館「高砂」に、五十石の温泉を分けてもらい、24年、客席5室で温泉旅館「竹葉」を営む事となる。

旅館を始めるといっても、旅館経営の知識・経験はまったくなく、さらに当時は、他の旅館から教えを乞うというようなことはできなかったので、救いの手を湯の川温泉旅館組合に求める。ゑきえの人柄にほれこんだ組合員は快く頼みを聞き入れ、旅館経営のイロハを教える。

開業と同時に、函館で1、2を争う程の腕をもつ料理人・木村重次郎(後の函館割烹調理師組合理事長)を料理長に迎え、温泉旅館「竹葉」の基礎基盤が築かれる。

昭和25年、日ロ漁業の社長平塚常次郎氏の呼びかけにより義太夫の勉強会「竹葉会」が始まる。弟子を取らなかったゑきえであったが、この会で芸者衆に語りや三味線を教える。「竹葉会」は本人亡き後も平成7年まで続く。

「竹葉会」は年に一度「竹葉」の大広間で発表会を催し、義太夫の発表はもちろんそれに合わせて初代市川団四郎が岩沢ケイ子を相手に歌舞伎を演じたり若柳英利社中、花泉舞衛社中が踊りで花を添えたりそれを楽しみにするファンでいつも満席だった。

「純和風旅館」を目指したゑきえは京都の老舗旅館を訪れ、最高の料金を支払い、最高のサービスを受け、自分自身の肥やしとし、旅館経営に生かす。

旅館経営をしながらも、義太夫公演は続け、年に2~3回は稽古のため東京のお師匠さんの元に通う。また、函館での公演以外にも札幌、旭川など旅公演にも出かける。「お俊伝兵衛猿回し」「摂州合邦辻」「寺子屋松王の野辺送り」「佐倉宗五郎」などの演目を得意とした。

昭和48年に始まった「初春巴港賑」には第1回目から義太夫の出語りとして、10回目まで出演する。太夫・野沢吉春、三味線・野沢吉利の名コンビで観客を魅了し、初春には欠かせぬ存在だった。

昭和57年、16歳の頃から始めた義太夫での功績が認められ、文化功労者を讃えるために函館市文化団体協議会が新設した「白鳳賞」の名誉ある第一回受賞者となる。

病の床についた昭和62年の夏、開業以来のお得意様の宴が催され、自分の死期を悟ったかのごとく、「このお座敷だけは出る」と、周囲の反対を押し切ってお座敷に向かい、最後の挨拶を済ませると、普段と変わらぬまま、その席を立ち去った。

昭和62年11月18日、温泉旅館「竹葉」と義太夫に一生をかけ、情熱を注いだ大桃ゑきえも病魔には勝てず、76年の生涯に幕を閉じた。

函館ゆかりの人物伝