函館市文化・スポーツ振興財団

小野 連司 (おの れんじ)  1918年~1978年

若くして肺結核を患い、約40年間にわたる闘病生活で、再三死線を克服し、不死鳥のように甦っては詩業にひたすら精進した庶民派詩人・小野連司。

小野 連司

大正7年7月17日、材木商の長男として函館に生まれる。本名連治。

函館商業学校在学中に肺結核を患い、昭和35年7月から七飯町の国立北海道第一療養所に入所する。約40年間にわたる闘病生活で再三死線を彷徨、その都度不死鳥のように甦っては詩業に精魂を打ち込む。学生時代に保田与重郎の「日本浪漫派」の影響を受ける。

昭和14年「日本詩壇」、15年「詩文学研究」の同人としてその特異な叙情詩風をみせ、太平洋戦争後は「涛」(函館)、「純粋詩」(東京)、「地球」(浦和)、「だいある」「帆」(函館)の同人として活躍する。

昭和17年、「十三本目の万年筆で書いた詩集」を出版、以後53年刊行「鰯屋繁盛記」までの18冊の分厚い詩集は、いずれも1冊1編の連作叙事詩である。その他に「肉体交響楽」「鶴詩集」など8冊の未刊詩集がある。それはケタ外れの智識と恐るべき想像力にささえられたロマンチシズムの展開でもある。

連司は詩人として評価される量と質をもっているが、同時に批評家としての実績も無視できない。戦後、北川冬彦編集の「現代詩」に連載した「現代叙事詩論」は、ライフワークであり、詩壇の高い評価を得た。

文字道り縦横無尽に独特の刃をふるったが、ときにはプライベートな問題をかもしだしたりもした。本質的には批評家とともに世俗的批評家が同居していたといえる。純粋詩功労賞、昭和46年小熊秀雄賞、48年函館市文化賞を受ける。

小野連司は詩歌の道に専心し、「地球」同人、日本現代詩人会会員などとして活躍し、「橋上舞踏会」「ビヤホール泡物語」など優れた作品を発表した。また、後進に対する作詩の指導に力を尽くし、郷土の文学界の水準の向上に情熱を傾けるなど、函館の文学活動の向上、発展に寄与した。

昭和53年6月13日、幾度となく死の淵まで足をすべらし、その都度甦って来た不死鳥、小野連司は遂に帰らぬ人となった。死の2日前、出来上がったばかりの18冊目の詩集「鰯屋繁盛記」を前にして陽気に酒を振る舞った。

「鰯屋繁盛記」はA5判、390ページで短編小説1編を含め112編の詩と散文で構成され200部印刷された。収録の詩「銀座のいわしや」の中にも″典型的な庶民に過ぎない僕には、函館の一杯飲み屋で食べる、いわし料理が一番いい″とあるように、全編が大衆魚イワシにまつわる詩文集となっている。

どの詩にも、得意だった散文詩的な形式を駆使し、イワシを媒介にして政治問題にまでも話題が広がっていく小野連司の作品らしいスケールの大きさが躍如としている。

函館ゆかりの人物伝