函館市文化・スポーツ振興財団

岡本 康太郎 (おかもと こうたろう) 1874年~1954年

ウロコの愛称で市民に親しまれた函館製鋼船具株式会社の創始者で、本道漁網販売業界の巨商、岡本康太郎。

明治7年3月12日、紀伊国日高郡印南村(現・和歌山県)の神職岡本信之助の長男として生れる。長じて神戸に出て英語を学び、後に大阪の麻苧(麻とからむしで織った布)商前田三蔵の店員となる。23年3月より約1ヶ月間出生地印南村の母校にて代用教員として勤務する。
明治27年、叔父羽田が支配人を務める(カネヒャク)羽田商店の函館支店(末広町31番地)整理のためはじめて函館に渡り、1年にして支店の整理をする。叔父羽田は康太郎の力量を高く評価し、函館店の経営を任せた。この頃から漁網の製造に手を染め、東川町界隅の人々を雇って漁網製造技術を指導、函館有数の漁網店となる。明治40年の大火で店舗を焼失したのを期に店名を岡本漁網店と改めた。
明治44年4月、北海道機械製網株式会社と合併して資本金10万円の函館製網合資会社を設立し社長となる。販路拡張に務め業務の発展に伴い、翌年資本金を20万円に増資し北海道を代表する漁網販売会社として成長していった。
大正2年12月、樋爪禎太郎が経営に係わる船具店を合併して資本金を30万円に増資し、函館製網船具株式会社と改称し、引き続き取締役社長となる。また、業務発展の結果東京市日本橋区北新堀町14番地に支店を設置し、小樽区に漁網店、船具店の2支店を新設する。以来、国内外に北海道産漁網を輸出、販売高は大いに伸張していった。6年12月、函館区会議員に当選し、同時に常設委員となる。
昭和3年10月、錦糸布及漁網製造販売業を代表して函館商工会議所議員に選任され、翌月商工会議所副会頭に当選就任する。7年11月に会頭に就任し、同月賞勲局より紺綬褒章飾版を加授される。
函館商工会議所会頭として坂本作平氏の後を受け、函館の商工業者のリーダーとして、また、福徳円満なる資本家として、紀州人特有の粘りを見せ、”成らずんば成るまで待つ”の忍耐と努力をもって地場産業の発展向上に大きく示唆を与えるものであった。
昭和9年には函館は未曾有の大火に見舞われ、商工業都市函館は正に興廃の岐路にたち、特に中小商工業者は大火直後から死活問題に直面した。康太郎は焦土と化した市街地の見て、まず中小商工業者を救えと立ち上がった。その結果、復興資金の融通、あるいは興業組合に対する低利資金の活用が図られ、途方にくれる羅災者にとって物理的にも精神的にも復興を進める支えとなった。
ウロコ製作所、ウロコ鉄工所、ウロコ無線電気と次々興し、函館経済界の重鎮として函館商工会議所の会頭として2期6年務めた岡本康太郎は、昭和29年12月19日、81年の生涯を閉じた。
因に、「ウロコ」とは函館製網船具株式会社の通称であるとともに、会社の商標、商号であり、市民一般に通用していた愛称でもあった。

本文/「ステップアップ」vol.171(2003.6)より
(写真・資料/「開拓五十年記念北海道」鴻文社発行、「函館紳士名鑑」函館紹介出版社発行、「函館名士録」函館名士録発行所発行、「函館市史通説編第三巻」函館市発行、「北海道新聞」昭和26年1月5日~2月21日の連載・「函館財界50年」岡本康太郎)

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