函館市文化・スポーツ振興財団

岡本 一平 (おかもと いっぺい) 1886年~1948年

函館で生まれ、大正・昭和初期の日本の漫画界をリードした漫画・漫文家。

明治19年、函館にて生まれる。岡本一平3歳の時、一家とともに東京に移転、7歳で狩野派の絵を習学する。大手町商工中学卒業後、日本画家武内桂舟の門に入る。明治43年、東京美術学校西洋画科選科卒。同年、岡本かの子(歌人・小説家)と結婚。翌年長男岡本太郎(芸術家)誕生。明治45年、朝日新聞社に入社しマンガスケッチを担当。マンガに軽妙な文章を加えた「漫画漫文」スタイルを確立して人気をよぶ。
 明治のマンガ界は、福沢諭吉に才能を認められ、痛烈な社会諷刺マンガを描いた、日本で最初の職業マンガ家北沢楽天が1人で押えていた観があった。大正になると、多くのマンガ家が輩出、その中心的存在に岡本一平がいた。岡本一平は北沢楽天についで、自分の時代を持った。しかし楽天からは何の影響も受けずに、自分のマンガを確立した。そこに一平のマンガの価値があると言われている。子どもマンガ・似顔絵マンガ・風俗マンガ・政治マンガさらには随筆・紀行文・小説との活躍は多岐にわたっていた。
 一平が絵だけでなくて、文章をよくしたことは、大きな強味であった。一平の著作「探訪画趣」の序文で夏目漱石が次のように書いている「普通の画家は、画になるところさえ見つければ、それですぐ筆をとります。あなたはそうではないようです。あなたの画には、必ず解題が付いています。そうしてその解題の文章が、大変器用で面白く書けています。あるものになると、画よりも文章の方がまさっているように思われるのさえあります。」
 昭和初年、一平塾というマンガ家養成の私塾を開き、近藤日出造・杉浦幸雄・清水崑・矢崎茂四らを育てる。この門下生たちが昭和7年に新漫画派集団を結成する。時を同じくしてマンガ界の第一線から身を引く。
 昭和14年、作家として登り調子だったかの子が急逝。その2年後に再婚し、1男3女をもうけるが、昭和23年、疎開先の岐阜県加茂郡古井町(現、美濃加茂市)で死去。享年63歳であった。

本文/「ステップアップ」vol.70(1995.1)より
(写真・資料/「大正人物逸話辞典」森銑三編、「大衆文化事典」弘文堂、「函館人物誌」近江幸雄著、川崎市市民ミュージアム図録)

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