函館市文化・スポーツ振興財団

岡田普理衛 (おかだ ふりえ)  1859年~1947年

フランスの酪農の盛んな村で生を受け、道南の酪農の源流を作り上げたフロンティア・スピリットの持ち主、トラピスト初代修院長・岡田普理衛。

1859年11月14日(安政6年)、フランス・カルヴァドル、サンジョルジュ・ダンシーに生まれる。姓名はジェラール・プーリエ・フランソワ。1883年(明治16年)、公教(カトリック)大神学校を卒業後マンシュ県ノルマンディー・ブリックベック所在の「めぐみの聖母大修道院」に入会する。
明治30年、日本にトラピスト修道院が創立されるのを知り志願して、日本に来る。横浜から函館を経由して当別に到着する。
プーリエは修院長就任と同時に日本人になろうと決心する。日本人の信者は4人しかいなかったがそのうちの一人、大工の岡田初太郎の養子となり、岡田普理衛に改名する。
やせ地の開拓、働いては祈り、祈っては働くの毎日だったが7年後には周囲一帯を、えん麦、ジャガイモ、トウモロコシ、牧草などの畑地に変える。過労から2人が死に、病に倒れた者もいた。重罪人とまで噂する地元の人たちは、院内の作物を荒らし、牧草の山に火を放ったことさえあった。
普理衛は母国の神学校で哲学、物理、化学を修め、しかも農業に対する知識も豊かだったが、同院での成功は知識よりもその性格によるものといわれている。喜怒哀楽は表面に出さないが、質実剛健、行動力は盛んであった。
創立間もなく和牛を飼ったが、思うように育たず失敗。明治35年には故郷からホルスタイン5頭を買い入れ、数年後、再び5頭を輸入する。道庁もようやくその熱意を感じ、この時1頭に付き50円の助成金が出た。そしてこれらの牛をもとに36年からバターの製造を始めたため、酪農は道南一帯に広まる。酪農の成功は入院者の増加をも促し、前途を明るくした。その後さらにコンデンスクリーム、スキムミルク、チーズなどにも手をつけ、トラピストの名は朝鮮、上海まで伝えられるようになった。北海道庁長官、農商務大臣から表彰されたが、業績を誇示することなく、教えを頼まれれば指導もし、地味な生活に終始した。
親交の深かった人物に童謡「赤とんぼ」の作詞者、三木露風がいる。三木は大正4年と6年の2度に渡って来院し、岡田修院長の信仰にかける情熱に感銘して教師の任を引き受け、9年から14年まで「トラピスト学園」で修道士達に文学論や美術論の指導にあたった。その後、妻なか子と洗礼を受け、三木パウロと称した。有名な「野ばら」は当別の丘で作られた。
大正15年、福岡県京都郡抜郷村にトラピスト分院設立のため、修院長を辞任して現地に出向する。かつては重罪犯とののしった地元民は船影がかすんでも浜辺に立ちつくして、この老僧との別れを惜しんだ。
昭和19年7月、分院の設立、原野の開墾、修道志願者の育成に努めていたが、日中事変の勃発や日米戦争の突入などにより福岡の新田原分院を閉鎖。修道者を連れて当別の修道院に引き上げてくる。
晩年、心静かに日を送っていたが、昭和22年7月1日、激動と波瀾と春秋に富んだ生涯から永遠の眠りについた。享年87歳。

本文/「ステップアップ」vol.217(2007.4)より
(写真/函館市中央図書館、資料/「トラピスト百年・岡田普理衛物語」中村正勝著、取材協力/函館市中央図書館)

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