函館市文化・スポーツ振興財団

小熊 幸一郎 (おぐま こういちろう) 1866年~1952年

函館を第2の故郷として函館の経済界で活躍、函館の繁栄と函館市民の幸福に貢献した「函館の恩人」小熊幸一郎。

慶応2年10月15日、越後国北蒲原郡南浜字太郎代浜(現・新潟市太郎代浜)に、小倉嘉右衛門・ワカ夫妻の二男として生れる。
明治6年、8歳の夏のある日、生母のワカに付添われ太郎代浜から7里の道を新潟に行き、養父母の宅に引取られた。養父の幸吉が35歳、養母のタマが21歳のときであった。
幸吉が営む廻船問屋の船方達が指す将棋に興味を持ち、たちまちのうちに神童振りを発揮、その力を試そうとする棋客や挑戦する好事家が殺到した。幸一郎は全生涯を通じて、将棋を最大の興味娯楽とし、それが彼の処世観にも大きく影響した。
明治12年4月、新潟区公立小学校第五番豊照校上等科を卒業し、翌13年12月まで、代用教員として母校で教鞭を取った。
明治14年、上京し兜町寺田株式仲買店にて丁稚奉公をするが、12月閉店のため、再び新潟へ戻り、海運業南半之助商店の店員となる。そこでの幸一郎は、もう丁稚ではなく、最初から有能な中級店員として扱われた。
明治20年6月、志を立て川崎船に便乗して、北海道へ渡ろうと決心する。その頃、函館方面のイカ漁は、北陸方面の漁民の夏季出稼ぎの対象となっていて、川崎船に7~8人から14~15人も船子が乗って、遙々函館までやってくる数が、100隻を下らなかった。
幸一郎が降り立った函館の港は、天恵の良港な上に設備が整い、いかにも外国貿易港らしい様相を呈し、夥しい内外物資の集散港らしく、活気が隅々まで溢れていた。”そうだ、俺の働く場所は此処だ。この町で力の限り働き、一旗あげてやろう“と固く決心した。
その頃手広く”付船“を営んでいた西浜町の岩船屋大越源助の店に店員として住込む。岩船屋大越商店は、3代伝わる函館の廻船問屋の老舗だった。陰日向のない幸一郎の働き振りは、近所近辺の噂となり、幸一郎に嘱目した1人に、初代相馬哲平があった。
明治23年、養父幸吉が越後より移住し幸町に廻船問屋を開業する。幸一郎は岩船大越商店を辞し入店する。この年、和船和得丸にて樺太を視察する。翌年、再度樺太を視察。
明治28年5月、独立して幸町に仲買店を開く。樺太漁業に着手して成功、叔父の遺産を合わせ資産家となる。カムチャツカ、沿海州の漁業も経営、帆船を汽船に変えるなどして近代化し沖取り母船式サケ・マス事業を推進、漁獲物の鰓(えら)を除き塩蔵、箱詰めにして商品価値を高め、塩マスの販路を中国に開いた。種々の組合を作り機構を強化し、漁業会社の統合を行い事業の発展に尽力した。また函館の港湾改修、倉庫や冷蔵施設の充実、製缶、製綱、漁具や漁業資材の生産向上を図り、金融界を整備し漁業資金、金融を円滑にした。「小熊育英資金」、市立函館図書館、旧函館商工会議所の建築費など巨額の資金を寄付し、社会に貢献した。これらの社会的な功労が認められ「紺綬褒章」を、続いて「藍綬褒章」を受賞した。
昭和4年、水産功労者として新宿御苑の観桜会に招かれるという光栄に浴した。
昭和27年7月4日、死の苦痛などは微塵もなく、一語も発せず、静かに潮の退くように、幸一郎の呼吸は消えて行った。波瀾万丈の生涯は、静謐すぎるほど静謐に終った。行年87歳だった。

本文/「ステップアップ」vol.149(2001.8)より
(写真/函館市中央図書館、資料/「小熊幸一郎伝」函館商工会議所発行、「北海道歴史人物事典」北海道新聞社発行、「函館人物誌」近江幸雄著)

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