函館市文化・スポーツ振興財団

小川 弥四郎 (おがわ やしろう) 1846年~1914年

露領沿海州ニコラエフスクに渡航して鮭鱒の買付事業を始め、以後50年間にわたり北洋漁業の経営に当たった小川合名会社の創立者・小川弥四郎。

弘化3年石川県に生れる。明治初年函館に渡り、同郷の漁業家永野弥平の支配人として樺太漁業に従事する。
明治28年、独立して、女婿の坂本作平を伴い、露領沿海州ニコラエフスクに渡航して鮭鱒の買付事業を始める。以後50年間にわたって北洋漁業の経営に当たる。
日本人が最初にこの方面に出漁したのは明治25年のことで、この年、ニコラエフスクで、鮭鱒350石を漁獲・加工して函館に帰ったことが記録されている。
弥四郎がこの地方へ出漁したのはこの3年後の事であり、ニコラエフスク出漁の中ではごく早い時期である。この時、渡航した船は8隻の帆船であったが、現地の様子が明らかになって出漁者は次第に増加し、明治30年には多数の汽船も加わり45隻に達した。さらに32年には85隻と急増し、出漁船舶は5年間に10倍に増加した。
このような日本人漁業者の進出に触発され、ロシア人の中にも自ら漁業経営に乗り出す者が現れたが、この頃のロシア人漁業は未熟で、漁獲作業においても日本の技術と労働力が必要とされ、このため、日本の出漁者は共同経営、あるいは買魚、製魚を名目にして事実上漁獲作業にも従事していた。
しかし、ロシア人漁業者の台頭とロシア当局の規制が強化されるようになって、日本人の漁業は買魚事業に転換していく。弥四郎の場合も当初は直接魚場の経営に当たっていたが、ロシア当局の規制実施後は買魚に切り替え、日露戦争開始まで継続している。
明治28年以降は、29年、ニコラエフスクで日本式建網の許可を受け漁業経営に着手。30年、太田丸、南海丸(後西海丸に改名)を購入し、アムール河に4か所の魚場を経営。また、自家船をニコラエフスクに回航して日本人漁業者相手の回漕業に着手。31年、ニコラエフスク漁業は法令により買魚事業に転換。33年、帆船西海丸を改造してオットセイ猟獣業を開始。そして37年、日露戦争が勃発してニコラエフスク買魚事業休止となる。
戦争終結後、ニコラエフスク市下流漁区のワッセ漁場で買魚事業を再開し、以後カムチャツカ出漁の事業も平行して続けていく。明治42年、坂本作平の名義でカムチャツカ西海岸の漁区を取得して本格的な漁場経営に着手し、45年には規模拡大を進める。
弥四郎が個人経営として続けられてきた事業は、明治44年2月に設立された小川合名会社に引き継がれ、さらに東邦水産株式会社の事業として発展する。
大正2年、ニコラエフスクには将来の見込みがないと判断し、この年を最後にニコラエフスク買魚事業を中止する。
大正3年、初代小川弥四郎死去。これに伴い坂本作平が小川合名会社の代表社員に就任した。

本文/「ステップアップ」vol.176(2003.11)より
(写真/市史編さん室提供、資料/ 『函館市史』通説編第3巻、「函館市要覧」)

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