函館市文化・スポーツ振興財団

小田島 安佐 (おだじま あさ) 1901年~1996年

父、久五郎の厳しい指導のもと、道南において女性写真師の草分けとしてシャツターを押し続けた“規光堂のおばちゃん”こと小田島安佐。

明治34年8月29日、岩手県黒沢尻(現・北上市)に父・平藤久五郎、母・タカの一人娘として生まれる。父・久五郎は名の通った指し物師だった。
安佐6歳の時、父と母は離婚し、父は小田島の姓に戻り、独り函館へ渡る。その翌年、母は父の後を追って函館に渡って来る。
東川尋常小学校へ入学。小学校の頃は、体が小さかったのでいつも一番前の席だったが、成績は1番で、習字と絵が得意だったので学校内では知られていた。卒業式では、その頃、男の子しか読まなかった答辞を女の子で、初めて読んだ。
安佐が小学校へ入学した頃、父・久五郎は独学で写真の研究を始める。腕に自信をつけた久五郎は、明治44年頃から出張撮影を始める。大正2年鶴岡町(現・大手町18)で営業していた指し物の店(建具店)を自分の手で改築し、写場を造り、写真館として営業する。屋号は、宮師をしていた久五郎の父から「規光堂」と名づけてもらい、自身も写真師・小田島麗水と名のり、技師をおいて営業を始めた。
小学校を主席で卒業した安佐は庁立函館女学校(現・西高)へ進む。奈良県立女子高等師範学校へ進み女教師になろうと考えていたが、1人娘のため、親元を離れることは許されず、写真館の跡継ぎとして修業することになる。安佐18歳の時であった。
20歳の時、福山の廻船問屋「清水屋」の息子、虎吉と結婚。翌年には、長男久雄が生まれる。
大正13年、父・久五郎は千代台の支店へ自転車で行く途中、駅前の郵便局前で交通事故に遭い47歳の若さで亡くなる。安佐24歳にして、写真館の仕事を継ぐことになる。
明治から大正にかけての写真撮影は、まだ日光を頼りの自然撮影だったので、写場内には光の調節のために厚い布地の白、黒の幕が張りめぐらされていた。時代の先端をいく仕事で、手引き書もなく自分で研究を重ね、東京まで講習を受けに行くなどの苦労を重ねた。常に勘を働かせてシャッターを押さなければならず、何度も何度も写し、シャッターチャンスは、身体で覚えた。
経営面は夫の虎吉が担当し、”お客さんのズバリの表情が出たよい写真“をモットーに撮り続け、規光堂はうまいョの評判が広がり、市内一流の写真館に成長した。
昭和31年に写真師組合の組合長をつとめた夫と死別、経営面を長男の久雄夫婦にまかせ、スタジオ撮影を一手に引き受けた。婚礼の記念写真をメインに、調髪から着付までできる写真師は小田島さんぐらいと言われ、撮影から現像、焼き付けまで1人でこなし、暗室にこもりっきりで、1日平均八ツ切り150枚を仕上げ、休養日は仏滅の日ぐらいだった。
写真が私の生きがい、カメラで毎日、若い人を見るので若返りますと写真に情熱を燃やした小田島安佐は、平成8年1月20日、95歳をもって永眠した。

本文/「ステップアップ」vol.135(2000.6)より
(写真・資料/「道南女性史研究・第3号」、「函館散策案内」、「北海道写真百年史」北海道新聞(夕刊)昭和46年6月1日発行、北海道新聞(朝刊)平成8年1月22日発行)

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