函館市文化・スポーツ振興財団

泉藤兵衛 (いずみ とうべえ)1829年~1895年

明治初期から中期にかけて地方産業開発の先駆者の一人として函館のまちづくりに尽力した実業家、泉藤兵衛。

文政12年12月26日、陸奥国下北郡大畑村(現・青森県下北郡大畑町)に生まれる。10歳の時母が亡くなり、家を出て船問屋の丁稚として奉公する。
嘉永3年、船問屋と木材業を起こすが失敗。逃れるように松前に渡り升屋定右衛門に奉公し、磯谷、歌棄漁場の請負人になる。
安政元年、借財の返済や、家の始末もあり、大畑村に帰郷する。
安政5年、箱館に一家をともない移住する。当時の箱館は第二次幕府直轄時代を迎え、外国船の入港も多く(幕府は安政元年に日米和親条約を締結、下田、箱館の2港を開港)、箱館奉行を置き、洋式城郭の五稜郭の工事が始められる。箱館奉行支配組頭阿津三郎太郎は箱館奉行所御用取扱となっていた松川弁之助に蝦夷地開拓事業に藤兵衛を用いるように指示し、藤兵衛は弁之助を助け、この事業に協力した。
また、弁之助が請け負う地蔵町(現・豊川町)埋立工事に協力したので、土地配分が約束されたが、後に負債償却のため埋立地全部を売り払わざるを得なくなり、土地を受け取れなかった。
その後菓子商を営んでいたが、慶応元年佐野孫右衛門より虻田郡礼文華(れぶんげ)の虻田漁場を譲り受け、長崎屋半兵衛より資金を借り、家族と共に豊浦町に移り漁業に従事する。
明治6年、再び函館に帰り、三好又右衛門より恵山硫黄鉱区を譲り受けて採掘に従事し、8年村田駒吉と共同して岩内郡硫黄山に投資する。また当時、本道昆布は粗製濫造が多かったが、藤兵衛は開拓使の諮問により意見を述べ回復の法を講じ、11年3月開拓使より北海道製造物品売捌大取次人を命じられる。
藤兵衛は村田駒吉と銀行設立の必要性を唱え、函館支庁に具申するが、時期尚早として受け入れられなかった。しかし藤兵衛等は設立に尽力し、遂に明治12年1月6日会所町(現・末広町)に北海道で最初の本店銀行「第百十三国立銀行」として営業を開始し、その取締役に推薦され、また函館区の総代人にもなった。
明治14年、第1回の函館区会議員選挙で初当選し、26年3月まで歴任する。
明治27年7月、虻田郡礼文華、岩屋の円空僧作観音像の首の修理をし、同時に絵馬2枚を献上。10月には有珠善光寺の地蔵堂に1枚の絵馬を献上する。
藤兵衛は農業の重要性を知り、「農は国の本なり」と、心を農業に傾け、亀田郡大野村(現・北斗市)に田畑百町歩、青森県下北郡正津川村に山林五十六町歩を有する。一方、製薬にも力を入れ、沃度(ヨードカリウム、ヨードチンキ等)が人体に有効なのを知り、息子の嘉四郎に東京でその製法を学ばせている。
商業・漁業・鉱山業・銀行業及び製薬業を営み、地方産業開発の先駆者として函館の町づくりに尽力した藤兵衛は明治28年10月28日、函館の自宅にて67年の生涯を閉じた。
日本新聞社の議会担当記者から函館市会議員として市政に奔走した泉泰三は孫にあたる。

本文/「ステップアップ」vol.226(2008.1)より
(写真・資料/「北海道史人名辞典 第1巻」北海道文化資料保存協会発行、「函館・道南大事典」南北海道史研究会編、「北門名家誌」丸山浪人著、「箱館物語」函館パルス企画発行、取材協力/函館市中央図書館)

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