函館市文化・スポーツ振興財団

初代 石塚 弥太郎(いしづか やたろう)1855年~1918年

2代 石塚 弥太郎(いしづか やたろう1883年~1966年

漬物乾物商から海陸産物商へ、また公共事業において貢献した函館の代表的商人初代石塚弥太郎と初代を助け、自宅のある谷地頭町で温泉を振り当て、土地と共に函館市に寄付した2代石塚弥太郎。

初代 石塚弥太郎 2代 石塚弥太郎

初代石塚弥太郎は安政2年8月12日、神奈川県足柄下郡前羽村にて父卯兵衛の三男として生まれる。石塚家は代々農業を生業とし、土地の旧家であった。
弥太郎は兄弟3人の末子故、独立自営の思いが強く長ずるに従い気持ちを抑えることができなくなり、志を決して明治14年5月、27歳の時函館に来る。直ちに状況を調査して農作物を郷里より取り寄せ、西川町に於いて漬物乾物商を開始し、自らその営業に当る。
明治21年、東浜町に居を移し、従来の漬物乾物商から海陸産物商に転じ、カムチャツカで漁業を展開する。敏捷な商才と思慮の周密さにより商業漁業共に順境に利潤を得、順風満帆の経営の中、信用、名誉、人望を得る。
弥太郎は北海道の将来は漁業より農業に向かうべきで、農業を以て本道開発の先鞭たるべきを達観し、比較的農耕の進歩が遅い日高地方の農業を発達させるべく、日高に渉り未開地貸与を受け、開墾に意を注ぎ日高に於ける農業奨励に腐心する。
大正4年3月、瀬棚郡「メップ」に於いて万奄鉱を発見し、鉱物採取に着業する。また同年11月、神奈川県国府津に於いて鰤漁を開始し、年次事業を拡張しつつ経営を継続する。弥太郎は鋭意農業を進め漁業に従い鉱業等本道の開発進歩を促すべき事業に関与し、本道生産の上に多大な利益を与える。また、公益事業に貢献するところも多く、明治38年函館区会議員に選挙され、以後13年間勤続する。また、39年には函館商業会議所議員に挙げられ、12年間1日の如く頁献する。その他にも、大正3年自らが先唱して函館海産商同業組合を組織して組合長に挙げられ、函館商工連合会幹事長となるなど重職を歴任し、物産商としては資力、信用も第一流で資性温厚篤実で函館の代表的商人と称された。
大正7年4月、病にて64年の生涯を閉じた。
2代石塚弥太郎は明治17年2月15日、小田原近在の押切で峰尾家の次男として生まれる。幼年の頃に石塚家の養子となって函館に来る。宝小学校、庁立函館商業学校(旧制2回生)を卒業して家業を継ぐ。初代弥太郎を助け、家業の「イチヤマ石塚弥太郎商店」を盛り立てた。
当時は函館が北海道の海陸物産の集積地となっていたので、海産物、雑穀を手広く商っていたほか、鉱山業にも関わり、鉱区の売買も手掛けている。
尚、2代目弥太郎は日露戦争に徒軍し、陸軍中尉であった。
昭和39年に胃ガンになり、国立がんセンターで手術、その後はロータリークラブなどに出席もしていたが、41年に再発、同年12月6日死去した。
生前、函館海産商同業組合の副組合長、函館商工会議所議員、市会議員(翼賛選挙)調停委員、などの公職を務め、勲五等瑞宝章を受けている。
昭和14年、自宅のある谷地頭町で温泉を掘り当て、土地と共に函館市に寄付、これが現在の市営谷地頭温泉の発端になっている。

本文/「ステップアップ」vol.177(2003.12)より
(写真/石塚弥一郎、石塚龍弥、(株)イチヤマ商店、資料/「風雪の碑」田村謙吉著、「函館商工案内」上巻、函館新聞(平成12年10月15日付)、取材協力/石塚弥一郎、石塚龍弥、(株)イチヤマ商店)

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