函館市文化・スポーツ振興財団

石川藤助 (いしかわ とうすけ)  1847年~1917年

資性温良にして義侠に富み常に公共の事に努め、湯川村に温泉を開削し、現在の湯の川温泉街の礎を築いた石川藤助。

石川藤助

弘化4年1月、福井県越前の農業・田中藤右衛門の二男として生まれる。文久3年、知人に伴われて箱館に渡る。同地の商人石崎傳七のところに奉公すること4年、呉服商石川喜八の養子となる。以来家業に専念し、店を大きくする。

明治4年、国は開拓使を札幌に移し、大いに本道の開拓を進める。藤助は、にわかに札幌方面に多数の移民が入り込むのをもって、札幌及び石狩に支店を設け、更に帆船を利用して海運業をも営む。

当時、函館に掘り抜き井戸がないのを見て、この経験のある実父・藤右衛門を故郷より招き、盛んに掘り抜き井戸の掘削をする。この地域の飲料用の掘り抜き井戸の多くは石川藤助の手によるものである。

明治15年、住まいのある恵比須町に銭湯を開く。同年、函館の陸軍守備隊のご用達となり、たまたま守備隊の用で湯川村を訪れた際に、湯気があるのを発見。17年の春より同村の各所を掘削し、翌18年8月15日初めて同地鮫川で110度近い温泉が噴き出す。村の者はいうまでもなく函館でも大評判となる。これまでに藤助が掘削に費やした費用は相当な額であった。

以来各所に次々と噴湯を発見し、時の函館県令・時任為基が同温泉の設備に力を添え、「函館四天王」の内の2人初代渡辺熊四郎、平田文右衛門、そして北海道で最初に新聞をつくった男・伊藤鋳之助ら3人とこの温泉を以て温泉場を設立することを村民と協議し、遂に函館の名所の一つとして湯の川温泉の名を広く世間に知らしめることとなる。そして湯川村の本格的な町づくりが始められる。

藤助は養父・喜八に温泉宿を経営させるが、明治43年、喜八の病没後温泉宿を赤澤吉之に貸与する。それが当時の東洋館である。

藤助は、企業経営や土木建築請負に従い、また有志と湯川村に陶器製造業を始めたり、晩年は農耕を楽しむ。

函館商業会議所議員、消防組頭等の役に励み、養父・喜八の没後は、住まいを湯の川に移し、温泉の経脈を研究しながら穏やかな老後を楽しんでいたが、大正6年5月7日、逝去。行年71歳であった。

なお、湯の川温泉の起源は、およそ350余年前の承応2年(1653年)と言われている。

松前藩の藩主の子、千勝丸が医師も見放すほどの重い病気にかかり、松前藩の藩主は千勝丸のために家来たちに温泉を探させる。その時に発見されたのが、湯の川温泉で、その湯に千勝丸を湯治させたところ、まもなく全快したという言い伝えがある。

明治維新(1868年)のおり榎本武揚、土方歳三率いる旧幕府軍と新政府軍との間で起こった箱館戦争では傷病の兵士たちの療養にも使われたそうである。

函館ゆかりの人物伝