函館市文化・スポーツ振興財団

石垣隈太郎 (いしがき くまたろう) 1859年~1928年

北海道漁業開発に貢献し水産王と称せ5れた遠洋漁業の先駆者で、函館ラムネ界の先覚者、石垣隈太郎。

安政6年4月8日、伊勢の国(三重県)員弁郡大社村(いなべぐんだいしゃむら)の石垣九右衛門の三男として生まれる。石垣家は武士清和源氏の家柄で、隈太郎は小さい時から大きな志を抱き育つ。
明治7年、14歳の時、横浜に出て三菱会社の給仕として務め、数年で東京三菱会社の貨物輸出掛となる。「西南の役」がおきるや、10年3月同社所持の御用船「玄龍丸」に事務員の一員として乗船する。以来長崎、肥後(現・熊本県)、鹿児島各方面に航行して軍隊及び軍需品輸送任務に従事。12月御用船の任務解除とともに本州北海道間の航海に従事し函館港に着岸。隈太郎初めて北海道の地を踏む。
その後、三菱会社函館支社の勤務となり、明治18年同社の郵船会社と併合後も郵船会社函館支店に在勤し、任務に精励する。
明治22年、三菱会社をやめ、翌年東浜町(現・末広町)桟橋前に店舗を構え、洒類・醤油・缶詰・油などの商いをするとともに、漁業も経営する。また、24年、神戸より職工を招き、大阪から諸器械を取り寄せラムネの製造(社名・北水舎)に着手する。
明治27年、帆船7隻および汽船3隻を買い入れて北洋で海獣猟業(ラッコ、オットセイ等)を行うとともに、アラスカ方面から魚の買い付けをはじめる。また、露人カリーニ名義でロシア領ニコライエフスクと北樺太タムラオ方面でサケ・マス漁業を行うなど、北海道漁業開発に貢献し水産王と称せられる。このほか沈船引揚、海運事業なども営み巨万の富を築く。
明治40年5月、遠洋漁業を日本郵船株式会社の事業に転移し自ら重役となる。45年、有志者と謀り輸出食料品株式会社を起こしてその重役となり、順調な経営により大正6年・7年と増資を続ける。また、6年には大阪に東洋製缶株式会社を創立し、取締役となる。樺太西海岸に於いて日本養狐株式会社を起こし取締役となり、合名会社林鉄工所を創立して製缶用の機械及び諸種の機械類の製作を行う同社の社長となる。
大正14年、サケ・マス漁業によって得た財の中から100万円を大日本水産会に寄附する。大日本水産会は大日本農会・大日本山林会の二団体とはかり、財団石垣産業奨励会を組織し、関東大震災で焼失した三会堂再建の基金とする。
その後、仲浜町(現・大町)に店舗を構え海産物委託及び輸出入商を営み、店は店員の八木財吉に任せる。隈太郎は東京小石川本村町に豪邸を構え、中央実業界に奔走する。
函館区会議員、同商業会議所議員、その他各般の名誉職に選ばれ、多年地方公事に尽力し、西別院の再築に際しては米穀・海産商の太刀川善吉等と共に率先して私費を投じ、その再建上大いなる役割を果たす。
昭和3年、産業界のために尽くした石垣隈太郎はその生涯を閉じた。享年69歳であった。

本文/「ステップアップ」vol.221(2007.8)より
(写真/函館市中央図書館所蔵、資料/「開道五十年記念北海道」、「北海道人名辞書」、「開拓使前後」、「函館名士録」、「北洋の夜明け」、「日露漁業経営史」第一巻、取材協力/函館市中央図書館、函館市北洋資料館)

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