函館市文化・スポーツ振興財団

石館友作 (いしだて ともさく)  1872年~1950年

私財を投じ、次代を担う青年の活動の場として函館市青年会館(後・函館市公民館)建設に尽力した篤志家・石館友作。

石館友作

明治5年6月1日、松前郡福山町で酒、味噌、醤油製造業で郵便局長の財産家・父兵右衛門と母まちの子として生まれる。

石館友作は父の跡を継ぎ、明治44年に続いて大正3年に函館区会議員、大正3年から5年まで函館商工会議所議員そして函館貯蓄銀行頭取、さらに北海道銀行重役を務めた経済人であった。

昭和5年9月13日、令旨奉載(りょうじほうたい 皇太子と三后の命令を下達する文書。のち女院・親王・諸生らの文書にもいう)10周年を記念して開催された「函館市聯合(れんごう)青年団大会」において、集会場所としての「青年会館」建設の気運が高まり募金活動を行ったが実績が上がらない状態が続いた。

その苦労が7年4月初めに発行された函館毎日新聞に掲載され関係者が苦労しているのを知った石館友作が、次代を担う青年の活動に関心を持ち、汐見町(現・青柳町)の敷地約400坪、工事費5万1千円、土蔵一棟、木造家屋一棟など10万円相当の寄付を函館市に申し入れた。

設計監督に、大火後、函館市復興のために東京から招かれ、地方都市としてはいち早く鉄筋コンクリート造りを手がけた函館市建築技師・小南武一、施工瀬崎組で昭和7年9月27日に着工。翌8年10月31日、鉄筋コンクリート造2階建ての函館市青年会館は竣工した。

函館地方裁判所・同区裁判所の合併庁舎が、昭和9年3月21日の大火で焼失したため、青年会館をしばらくの間使用。13年9月になって裁判所が移転し、修理を行って11月22日に落成開館式を蛍丁行し名実共に青年の殿堂としてその進展に寄与してきた。しかし、終戦により進駐してきた米軍の施設として使用される。

昭和22年1月、函館市公民館設置準備委員会が開かれ、様々な審議がなされ、青年会館を転用する事となり、5月3日、函館市公民館として開館した。25年に花嫁学校(週4日)が評価され、全国準優良公民館、31年には青年学級、婦人学級など意欲的活動が認められ全国優良公民館として文部大臣賞を受賞する。

石館友作の慈善事業は多々あるが、特に防火には熱心で火防会幹事を務めた。また、郷里の福山町立病院の建設資金や育英資金を寄附し、紺綬褒章を授章する。

昭和25年10月16日、函館実業界の重鎮として知られた石館友作は、鎌倉市笹目町の別宅で死去。

昭和32年5月27日に開催された函館市公民館運営審議会で、故人が愛用した洋間を「石館ホール」と名付け、大壁鏡・ペチカ・シャンデリアなど調度や装飾を大切に保存し、故人の遺徳を偲び永く頗彰することを決めた。

函館ゆかりの人物伝