函館市文化・スポーツ振興財団

猪子利男 (いのこ としお)1921年~1998年

戦後の太洋(オーシャン)倶楽部を牽引し、多くの市民に″夢と感動″を与えた快男児、猪子利男。

大正10年5月24日、愛知県中島郡一宮町大字一宮御免野13番地にて、父・利一、母・ふしの長男として生まれる。
小さい時から何事においても率先して事に当たる元気な子どもで、学校においては、文武両道を貫き通し、常時トップの成績であった。また、誰よりも足が速く、いつしか友だちから″韋駄天の猪子″と持てはやされ、人気者であった。
愛知県一宮第二小学校高等科に進んでからは、脚力を生かして陸上部に入る。しかしそれもつかの間、当時人気が出てきた野球部に勧誘されたため、次第に野球に興味を抱くようになり、やがてその虜となる。
野球の名門・東邦商業(現・東邦高等学校)から誘いを受け、一年生からレギュラーの座を確保。5年間で春・夏会わせて5回の甲子園出場を経験し、「選抜名勝負50番」に加えられる昭和14年の優勝戦に、その名を残している。
東邦商業卒業後、南海ホークス入団。当時のプロ野球は、巨人、阪神を中心に8チームで構成されていた。南海の主将は岩本義行、猪子の1年後には南海のエースとなる300勝投手の別所毅彦が入団してくる。
猪子は昭和16年から19年春まで遊撃手(背番号10番)としていぶし銀の活躍を見せる。努力家で練習熱心、バントが得意で、17年には33の犠打を成功させる。これは23年後の40年、大洋の近藤昭仁に破られるまでのプロ野球記録だった。19年に近畿日本チームが設立され移籍するが、太平洋戦争が激化し、プロ野球リーグも中断を余儀なくされた。昭和22年、福井県の紡績会社に勤めていたが、どうしても野球を諦められずに、誘われるまま23年春、永沢富士雄監督率いる太洋倶楽部に入団し、主将を務める。この時、猪子は28歳であった。プロ野球で培った経験を生かしてチームの牽引的役割を果たし、24、25年に都市対抗大会に出場するなど戦後の黄金期を築き、27年まで遊撃手として活躍した。
太洋倶楽部に入った時には既に、肩と肘を壊しており、遊撃から一塁まで、2回くらいバウンドしなければ届かなかったが、定位置よりずっと深く守りボールが来たら猛烈にダッシュし、体の動きのまま一塁へ送球する独特の投法でカバーした。そのプレーは見事なまでのボールさばきだった。打席では完全に右ねらい。ホームベースの奥に立ち、アウトコースだけを右へ押し出す。「手首が返らないからそれしか打ちようがなかった。それでも結構通用したんですよ」と後年話している。
同僚たちが函館を去った後も、こよなく函館を愛し函館に住み続け、太洋倶楽部の行く末を案じて、平成9年に函館太洋倶楽部・創立90周年を期して、自ら「太洋倶楽部OB会」を設立し、初代会長に就任する。
翌年の平成10年5月26日、再び郷里に帰ることなく函館の地で78年の生涯を閉じた。

本文/「ステップアップ」vol.207(2006.6)より
(写真・資料/「スコアボードが見ていた 函館太洋倶楽部80年の歩み」幻洋社発行、「熱球・北の軌跡 社会人野球物語」毎日新聞社北海道支社発行、 取材協力/高石健三(元函館太洋倶楽部監督))

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