函館市文化・スポーツ振興財団

今井 藤七 (いまい とうしち)  1849年~1925年

丸井今井百貨店の創業者で、北海道デパート業界の草分けとして業界をリードした今井藤七。

今井 藤七

嘉永2年、越後三条町(現・新潟県三条市)の米穀商今井七平の三男として生まれる。少年期に一家は大火に遭って全財産を失い、さらに父が無実の罪によって投獄されるなどの困難がつづき、三男の藤七が一家を支え、孝を尽くす。

父の無実がはれて、ふたたび一家で家運の回復に努めたが、戊辰の役後の不況で苦しい暮らしは続く。この時、藤七が着目したのは開拓事業が始まったばかりの北海道だった。

明治4年4月、わずかな旅費を懐に北海道へ向かったが、乗った帆船が通常の2倍近くかかり持ち金を使い果たしてしまう。しかし、船中での藤七の行動に好意をもった乗客の1人が船賃を立て替えてくれ、ようやく北海道の地を踏むことができた。藤七、23歳の時であった。

明治5年4月、しばらくは函館の武富陶器店に奉公していたが、開拓使が設置される札幌の発展を予想し、函館で知り合った同郷の高井平吉と共同で小間物を仕入れ、札幌へ出る。当時の札幌は戸数わずか200戸、700人余りの寒村であった。因みに函館は6万人で、本道第1位の人口を擁していた。

創成橋のそば(現・中央区南1条西1丁目)の茅葺き家で、むしろを敷いて屋台のような店を始める。商品の廉価、誠実・勤勉な商いぶりが評判となり、最初に仕入れた商品は2ヵ月ほどで売りつくすはどの繁盛だった。藤七はふたたび函館へ行き、五百円を借り受けて商品を大量に仕入れ以前にも増す繁盛ぶりだった。

2年後、独立して店舗を新築し、今井呉服店の暖簾をあげた。「商道は正道で、商いは飽きないで」を信条とし、開拓途上の北海道にできるだけ豊富に物資を移入し、移住者の生活安定に寄与しなければならないと考え、廉価に努めますます業績をあげていった。

当時、物資は東京と函館の問屋を二重に経由して仕入れていたので物価高となるため、藤七は東京の問屋から直接仕入れて販売することに成功し、画期的な「正札販売」に踏み切った。これは物価高に苦しんでいたひとびとの生活をおおいに助け、だれいうとなく「まるいさん」と敬称をつけて呼び、尊敬と親しみをもってこたえるようになった。

明治21年に今井洋装店を開業、大正5年に北海道で最初のデパートを開店する。藤七は「事業は人である」との信念をもち、店員には「お客さまは父、問屋は母。何事も感謝の念をもって事にあたらねばならない」と言って自らも実践し、多くの人材を育てた。大正6年には女店員の大量公募・採用など常に新機軸を打ち出した。

丸井今井函館支店は、藤七の末弟今井良七が独立するにあたり当時の繁華街、末広町の南部坂下の一角にあった函館第一の呉服店山丸二菊池呉服店を譲り受け、明治25年4月25日函館丸井今井呉服店として開店した。

時に良七36歳であった。良七は信用を第一とし、自らも店員とともに店頭に立ち、あらゆる階層に人気を博し業績は年々上昇を続け、毎年正月2日の初売りは早朝から開店を待つ人で十字街は埋まったという。

大正12年5月28日、良七は函館支店の百貨店新築工事が竣功し、開店日を目前にして病没した。函館支店の2代は藤七の弟、武七の四男音七が継いだ。音七は、仕事を生涯の趣味とし、昭和8年から11年まで函館支店支配人として手腕を振るい、社業の発展に尽くした。

昭和27年、音七は病のため社務から引退し、翌28年1月31日、商道に励んだその一生を閉じた。

一方、札幌本店は大正13年に全館が焼失し、直ちに再建に着手した。総4階一部5階建ての、当時としては最も近代的な建築様式を取り入れたものだった。客用エレベーターは本道で最初のものだったが、藤七はその完成を見ることなく14年10月24日77歳の生涯を終えた。

函館ゆかりの人物伝