函館市文化・スポーツ振興財団

今井 市右衛門 (いまい いちえもん)  1836年~1887年

若くして函館初の西洋雑貨の店を開き、北海道最初の新聞社「北溟社」を設立。函館屈指の大商人として、公共事業に率先参加した「函館の四天王」の1人、今井市右衛門。

今井 市右衛門

天保7年、能登國珠州郡正院村(現・石川県珠州郡)に生れる。幼名を久太郎といった。

10歳で父を失い、翌年の弘化3年、江差に住む親戚を頼り渡道する。母族田村氏に身を寄せ商業に従事し、逆境のなかで信条を身につけた。6年後、函館に移り近村に雑貨の行商を営み、数年後漸く僅少の資金を得て一家を構え後に先代を襲名して市右衛門と改称した。

元治元年6月、将来舶来品の需要増加を察して函館に西洋雑貨店を開店する。
これが函館最初の洋物店となった。箱館戦争後の資材、用品不足に助けられ大いに繁盛した。資産も大巾に伸び函館屈指の大商人となった。

しかし、市右衛門は常に暴利暴益を願わず公共のためになるのであれば、財と労を惜しみなく提供し、率先して参加した。

諸友と書籍店魁文社を興し、新聞の急要欠くべからざるを思っては北溟社を始めて函館新聞を発行し、器械製造所を設けて船舶の修理を助け、函館公園の開設に努め、渡辺熊四郎、平田文右衛門等と共に鶴岡小学校を設立して貧民の子弟の教育に貢献した。その他にも豊川病院、育児会社、弥生小学校の創設等を行った。

当時の函館の公共施設において、市右衛門の関係しないものはなかった。現在では、想像に絶する公共心の厚さであった。また、区民の信望も厚く町用掛、更に明治14年区会議員に選ばれている。

明治11年、北海道開拓使長官黒田清隆は市右衛門の善行を賞して黄金指環を贈り、その賞状に「善をなして止まざること、なお此の環の端なきが如く」と記し、15年藍綬褒章を賜った。

数年後、”今市のオトッサン“と人々に慕われた今井市右衛門は結核に冒され死の前日、親族友人を集め最後の別れをした。

そして、明治20年8月6日、52歳で鬼籍に入った。盟友平田文衛門が弔辞を奉読した。


函館四天王
明治初期から中葉にかけて函館経済界の重鎮として活躍し、産業振興、更に福祉事業や都市造りに力を尽くした函館市民精神の源流。今井市右衛門(1836~1887)、平田文右衛門(1849~1901)、渡辺熊四郎(1840~1907)、平塚時蔵(1836~1922)の4人で、元町公園にある四天王の銅像は函館青年会議所30周年記念事業として建立された。

函館ゆかりの人物伝