函館市文化・スポーツ振興財団

生田 喜代治 (いくた きよじ)  1898年~1927年

異国の地で不慮の死を遂げた国際的ランナー。

生田 喜代治

明治31年、鶴岡町(現大手町)にて下駄材問屋金治生田商店の長男として生まれる。

小学校を卒業後、大正2年庁立函館商業学校(以下函商)に入学。堂々とした体格で柔道2段、またマラソンの選手でもあった。登校は毎朝、勉強道具を風呂敷に包んで首から背負って韋駄天走り。

馬鉄にも電車にも乗らず登下校は毎日かけ足であったから、長距離競技にめきめきと頭角を表わしてきた。“区内の対抗マラソンで生田の伴走をしたが、松風町あたりでけいれんを起こしたので近くの外科医にかつぎ込み、注射を打って暫く休んでからまた走り出したが、それでも一等になった(旧18回生・大橋氏)。”という逸話が残っている。

大正6年函商卒業、早稲田大学(以下早大)に進学する。喜代治は友人たちに「おれは早大柔道部と早大競技部にはいったんだ」と友人たちを誘い、毎日欠かすことなくマラソンの練習に励んだ。

その努力は東都長距離界にその名を連らねるようになり、大正8年にマニラで開催された第4回極東オリンピック大会で1マイル・5マイル競争で大会新記録をだし、砲丸投げでも好成績を上げる。函商出身の生田選手という見出しで紙上をにぎわし「烈風砂塵を巻く中に雄姿を現はし円盤投げ競技に九十三呎八と言うレコード破りの第一等を占め」(函館新聞大正8年4月24日)と名実共に日本の陸上界を代表する選手となった。

早大卒業後同郷の明大出身長距離選手出口林次郎と共に、アメリカ大陸横断マラソンという途方もない大計画を立てて渡米するが、行ってみるとあの広漠たる大陸を走り得ようもなく中止する。

その後、ロサンゼルス市において柔道の指導をするかたわら、レスラーとしても活躍し、大正13年米国相撲協会を中心とした有志たちによる後援会もつくられた。

昭和2年、更に志を立ててメキシコのカンセンシコにおいて或る業務についているうちに事件に巻き込まれ不慮の死を遂げた。享年30歳であった。

昭和2年11月29日、ロサンゼルス市エバーグリーン墓地で米国相撲協会と北海道出身者有志外友人一同で葬儀が行われた。

函館ゆかりの人物伝