函館市文化・スポーツ振興財団

井田侾吉 (いだ こうきち)  1845年~1911年

田本研造の第1号の門人となり、進取の気性に富んだ写真師・井田侾吉。

井田侾吉

弘化2年、亀田郡大野町の新井家に生れ、のち井田家の養子となる。新井家は屋号を「だいさん」と称し、大三坂で宿屋を経営していた。

又、大野町の大富豪で時には馬7頭にお金を背わせ(1頭に2俵のお金)函館に運んでいたという。箱館戦争の時、幕軍にお金を貸したが明治35年、役場を通じて榎本武揚から”新井から一万円借りているので証書と引き替えに返したい“と言ってきたが、証書は火事に遭い焼失していたのでそのままとなった。

井田侾吉は大野から函館に出て、終生の師となる田本研造と出合う。田本研造は、函館で写真の技法を習得して写真業をはじめ、道内に多数の写真師を養成し、函館を終生の地として、写真界に大きな業績を残した。井田侾吉は第1号の門人であった。以来、手となり足となり、田本研造を支えた。

明治11年6月、開拓使の諸学校を撮影して東京の教育館に送る計画をたてたり、同年8月には開拓官員井深基に自費で随行し、千島列島の占守島(シュムシュ)と新知島に赴き、撮影している。この千島旅行には東京帝大御雇教師で日本地震学会の創立者、イギリス人の地震学者ジョン・ミルンも同行していた。

17年、田本研造が湿板写真術から乾板写真術に転じたころ退館し、同年9月15日富岡町10番地に独立開業した。現在の弥生小学校の前に建つ「明治9年御巡幸行在之地」碑がちょうどその場所に当たる。相生町79番地に転居したのは函館に水道が敷設された頃で、門人に巌田殅堂という人がいた。

さらに30年頃、樺太の大泊(コルサコフ)にも写真館を開設、大豆を炒ってコーヒーの代用をするという進取の気性に富んでいた。大泊の支店は37年3月22日、日本領事館から退去令が出て閉店した。

函館本店は42年頃閉業し、宝町に移転し貸家業で生計をたてた。大正2~4年、最初の開業地で薬局を営業し、ホシ製薬会社の薬販売の函館での草分けとなったらしい。

ガス灯のマントルも売っていたそうで、田本研造の実子である胤雄がたびたび訪ねて来たそうだ。薬局を営業していた当時の井田家が写っている町並みの写真が残されている。

進取の気性に富んだ井田侾吉は、明治44年2月10日宝町の自宅で66年の生涯を閉じた。

田本研造のもとにいたとき以来、実に多くの特筆さるべき作品を残している。「花ゴザを編むアイヌ婦人」「馬上のアイヌ」「占守島モヨロッパの住民」「占守島第一島住民の艀舟」等。

函館ゆかりの人物伝