函館市文化・スポーツ振興財団

初代 市川 団四郎(いちかわ だんしろう)1906年~1988年

家元制度に嫌気がさし、全国巡業の未、函館を拠点として芸の花を咲かせ、函館の歌舞伎の草分けとして歌舞伎を市民のものとした初代市川団四郎。

明治39年12月9日、岐阜市に生まれる。本名は今井由吉。11歳のとき、大阪で市川市蔵門下の役者だった兄・広吉の舞台を見て芝居に魅せられ、翌年、兄を頼って大阪に出る。役者になろうと決意し、15歳のときに上京。岩井粂三郎(後の九代目市川団十郎)の内弟子として入門し、市川団四郎の名をもらう。
しかし、門閥も後ろ盾もないことから歌舞伎座はあきらめ、28歳のときから名古屋の役者とともに地方巡業に出る。血筋、家柄にとらわれず、役者の実力を評価してくれる北海道がすっかり気に入り、昭和14年、全国巡業で立ち寄った函館に住みつき、市川団四郎劇団を旗揚げする。60人の一座を率いて函館を拠点に全国各地を巡業。戦前は、台湾、朝鮮、中国にも足を延ばし、函館の「団四郎」として名を馳せる。
後に、市内の「巴座」の専属劇団となり、地方都市としては数少ない古典歌舞伎の公演を続け、その普及にあたる。その勇姿を見ようと毎回300人の市民が詰めかけた。「勧進帳」の弁慶、「義経千本桜」のいがみの権太などの「荒事」がおはこで、五尺一寸八分(約157センチメートル)の小柄な体を舞台では一回りも二回りも大きく見せた。
当時の函館は、北洋漁業の全盛期で劇場も6ヶ所あり、いつも引っ張りだこだったが、戦後、函館の衰退そして映画の全盛時代を迎えて昭和37年一座を解散。その後は、舞台衣装貸出業を営む傍ら、市内の歌舞伎愛好者の指導、老人ホームの慰問などで歌舞伎を続ける。
また、昭和48年から市民劇場の主催で始まった歌舞伎「初春巴港賑(はつはるともえのにぎわい)」を指導するとともに、特別出演を続ける。54年には函館市文化賞を受賞する。
昭和62年8月30日、57年に心臓病で入院して以来の舞台が引退興行となる。高齢のため、この日限りで引退し、娘婿の今井勝三が二代目団四郎を襲名する。
市川団四郎の最後の舞台は菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)-寺子屋の段。大恩のある主君の子を救うため、わが子を身代わりに死なせる松王丸の役を務め、80歳とは思えぬ身ごなし、口跡でわが子を犠牲にする親のつらさを熱演。客席から「一代目!」「大統領!」などの声援が飛び交った。
昭和63年12月6日、道内でも数少ない歌舞伎役者として活躍した初代市川団四郎は82歳をもって脳梗塞のため永眠した。
亡くなる数日前に何度か、病床で「勧進帳」の弁慶の所作を繰り返していたという。
はからづも今年の「初春巴港賑」で寺子屋が上演される。在し日の舞台を偲んで頂けたらと思う。

本文/「ステップアップ」vol.179(2004.2)より
(写真/今井利枝、資料・取材協力/関輝夫

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