函館市文化・スポーツ振興財団

榎本武揚 (えのもと たけあき)  1836年~1908年

没後100年を迎えた夢の「蝦夷共和国」総裁・榎本武揚。

榎本武揚

天保7年8月25目、江戸下谷御徒町(現・東京都台東区御徒町)の旗本榎本武規(通称円兵衛)の次男として生まれる。幼名・釜次郎、号は梁川。因みに長男は鍋太郎と名付けられた。父円兵衛は鍋と釜さえあれば食べていけるとして、このような名を2人に付けた。

12歳で昌平坂学問所に入学し、ジョン万次郎の私塾で英語を学ぶ。19歳で箱館奉行堀利煕の従者として箱館に赴き、樺太探検に参加。安政3年には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所し、国際情勢や蘭学と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学ぶ。

文久2年から慶応3年までの5年間、オランダに留学する。普墺戦争(ふおうせんそう・1866年、ドイツ北東部のプロイセンとオーストリアとの間でドイツ統一の主導権をめぐつて行われた戦争)を観戦武官として経験し国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、完成した開陽丸で帰国。幕府から海軍副総裁に任命され、実質的に徳川海軍のトップとなる。武揚32歳の時で、釜次郎から武揚に改名したのもこの頃。

慶応3年、徳川慶喜が大政奉還を行い、鳥羽・伏見の戦いが起こる。続いて戊辰戦争が起き、徳川幕府に対する政府の処置を不満として抗戦派の旧幕府軍とともに開陽丸、回天丸ほかの旧幕府艦隊を率いて脱出。新撰組や奥羽越列藩同盟軍、桑名藩藩主松平定敬らを収容し蝦夷地に逃走、五稜郭に拠り、士官以上の者から総裁選を行い武揚が当選。ここに「蝦夷共和国」が誕生する。

明治2年、開陽丸が江差沖で沈没。戦費の枯渇、相次ぐ自軍兵士の逃亡、新政府軍斥候による弁天台場砲台閉鎖、箱館湾海戦による全軍艦喪失など劣勢は決定的となり、降伏する。幕臣の手による蝦夷地の開拓と北辺防備を望んだ武揚の嘆願は新政府に受け入れられず、賊の首謀者として捕縛され、江戸辰ノ口の牢獄に投獄される。

明治5年1月6日、特赦を受けて出獄し、その才能を買われて新政府に登用される。3月8日、黒田清隆が次官を務める開拓使に四等出仕として士官、北海道鉱山検査巡回を命じられる。7年、駐露特命全権公使となり、樺太・千島

交換条約を締結する。内閣制度の成立後は6度の内閣で連続して、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任する。

明治24年、北海道開拓に関与した経験から、農業の重要性を痛感し、徳川育英会育英学農業科(現・東京農業大学)を創設し自ら学長となる。

明治41年7月13日、病に倒れ、10月26日に逝去。享年73歳。

箱館の住民にとって武揚等の行動は、必ずしも好ましいものではなかったが、「碧血碑」建立を初めとして、町名にもゆかりの名が残っている。

榎本町は武揚が傷病兵を温泉療養させた故事により、また梁川町は武揚の号梁川(りょうせん)を記念して名付けられた。

函館ゆかりの人物伝