函館市文化・スポーツ振興財団

M.C.ハリス(Merriman Colbert Harris)(1846~1921)

フローラ・リディア・べスト・ハリス(Flora Lydia Best Harris)(1850~1909)

函館伝道の開拓者として日本基督教団函館教会を創立したM.C.ハリスと遺愛女子高等学校設立の主唱者ハリス夫人

ハリスは、1846(弘化3)年7月9日、北米オハイオ州モンロー郡ビールスヴィルに父・コルバート、母・キャサリンの10人の子供の9番目として生まれる。両親はバプテスト教会員であったが、12歳のときメソジスト教会で洗礼を受ける。ハリス5歳にして、父が死亡、23歳にして母も召天するという不幸に遭う。
フローラは、1850(嘉永3)年2月14日、ペンシルベニア州・ミードビルに父・ダビット・ベスト、母・エリザベスの長女として生まれる。フローラは、生まれつき体が弱く、赤児のときには生存のほどもおぼつかない程であった。その後も大きな病になり、そのために長い間ベッドにいなければならないこともあった。
ハリスは、南北戦争のとき17歳で北軍に参加し、1865(慶応元)年戦争が終わるまで勤め、長官の推賞を受ける。高校卒業後、学資を得るために2年間小学校の教師をし、1866(慶応2)年メソジスト教会の定住伝道師となって、実地の伝道に従事した後、ペンシルベニア州のアレガニー大学に入学。文学及び神学を修め、1873(明治6)年3月卒業、同年10月23日同窓の友フローラ・リディア・ベストと結婚、この年に開かれたピッツバーグ年会で宣教師として日本派遣の任命を受ける。11月17日、サンフランシスコを出て12月14日の朝、フローラを伴って横浜に着く。
1874(明治7)年1月24日横浜を出帆し、26日にハリス夫妻は函館にその第一歩を印した。この頃の函館は開港場とはいえ、まだ小漁港で適当な家屋もなく、横浜より乗船した船長蛯子宅に宿泊する。その後、開拓史の好意で日本家屋を借り受けて住むが、1875(明治8)年上汐見町123番地に地権を取得し、大きな家ではないが、港の見下ろせる西洋館を建築する。
伝道に燃えていたハリスは、言動不通で非常に困難するが、どうにか福音を伝えようとまち中を歩き回り会う人ごとに、丁寧に「今日は」と挨拶したので、「人さえ見れば今日はというおかしな異人だ」と大評判となる。
この年の8月11日、函館駐在ドイツ領事ルードウィッヒ・ハーバーが函館公園の裏道で秋田の藩士・田崎秀親に暗殺される事件が起こり、在留外国人の恐怖は一方ではなく、必要な用事以外は外出せず、武器を備え戸締まりを厳重にして用心を怠らなかった。ところが弘前の東奥義塾の学生珍田捨巳がハリス夫妻を訪ねたところ、この家のみは何の用心もなく門戸を開放して、未知の青年を歓迎して迎えいれたという。
ハリス夫妻は、「私たちは日本を救うために来たのであって、不幸にして日本人の手にかかって死ぬことがあったとしても本望である。武器をもって備えることは恥ずべきことだ」と語り、英国領事館などでも礼拝を守った。
次号へ続く…

本文/「ステップアップ」vol.304(2014.7)より~NO.283
写真・参考資料/「遺愛七十五周年史」遺愛女子高等学校発行、 「遺愛史探求」作山宗邦著、 「遺愛百年史」学校法人 遺愛学院、 「日本基督教団函館教会100年史」 日本基督教団ハリス監督記念函館教会発行、 「北海道キリスト教史」福島恒雄著、 「故ハリス監督小伝」日本メソジスト教会・ハリス紀年函館教会発行、 「函館・道南・大事典」須藤隆仙監修、
取材協力/函館市中央図書館

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