函館市文化・スポーツ振興財団

蛯子 善悦 (えびこ ぜんえつ)1932年~1993年

徹底した現場主義を貫く画風で、パリの美術界でも広く知られ、フランス在住の邦人画家の先駆者として慕われた画家、蛯子善悦。

昭和7年1月17日、父作蔵、母キヌの7人兄弟の長男として稚内市に生れる。父作蔵は、稚内と当時日本領であったサハリンのコルサコフ(旧大泊)とを結ぶ椎泊連絡船の機関士をしていた。
昭和20年、道立稚内中学校に入学するが、終戦により、父親が青函航路に移ったため函館に移住、谷地頭町に居を定める。それに伴い、23年、現在の函館東高等学校の前身である函館市立中学校に入学する。ここで、当時、赤光社等に出品していた油絵の長谷川晶と出会う。この頃から油絵を本格的に描いていたようで、長谷川と頻繁に行動を共にしていた。
昭和24年、早くも17歳で第26回赤光社展に初入選、さらに、同年、函館市文化祭の最終行事として開催された第1回函館アンデパンダン展にも2点を出品し、北海道新聞社賞を受賞。さらに、翌25年、函館西高等学校に転入した年には、18歳で全道展にも入選した。きわめて早熟な才能の開花だった。「天才少年」と呼ばれたゆえんだろう。
昭和26年、第6回全道展で奨励賞を受賞。当時、北海道画壇の重鎮、故田辺三重松画伯に絶賛され、更にはこの時、全道展会員で画友であった伏木田光夫は”戦後の北海道画壇に、ビュッフェばりの新しい具象絵画をひっさげて彗星のように登場した“と評した。
昭和28年、通常より数年遅れて武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学する。ここで同じ北海道出身の伏木田光夫・故箱根寿保と出会う。伏木田光夫は4年間の学校時代を振り返って”美術学校時代も蛇子の才能はきわだっていて、その色感の良さには「こいつは天才かな」と舌を巻いた。彼の敏感で鋭い感性には洗練された知性のきらめきがいつも伴っていた“とある紙面に書いている。
昭和32年、武蔵野美術学校を卒業し函館に戻る。翌年には、高野政志、大倉昭吾、木村訓丈、笹谷英司、後に結婚する田村幸子らとグループ「欖(らん)」を結成。月に1度の合評会やグループ展を開き、絵の研鑽に励む。この間、世界の美術界の波に翻弄されつつも、常に内的な知の操作に基づき、画風を切り拓く。
昭和37年、国画賞受賞。40年、国画会会員。そしてこの年、東京に転居する。
昭和47年、40歳のとき、パリへ単身で渡る。4ヵ月余りの滞在ではあったが、フランス国内を初め、ヨーロッパ各地を精力的に写生して回った。帰国後、東京某画廊によりリトグラフ集「ヨーロッパにて」を刊行。
2年後、改めて家族とともに渡仏する。パリ市に隣接したルバロワ市に居を定める。それから、およそ20年間、アトリエを拠点にヨーロッパ中を車で旅しつつ、旺盛な制作活動を展開する。
昭和60年、フランス伝統の美術団体「サロン・ド・オトンヌ」の会員となる。日本を離れてからは、函館、札幌、東京、大阪、パリギャラリジョエル・サランその他で個展を多数行う。ヨーロッパ居住後は、野外で自然が織りなすさまざまな光、空気、匂いの中に身をおき、目に見えるものを捉えつつ仕事をすることを至福とし、画風を確かなものにしていった。
そして辿りついた世界は、優美といっていい、光りに満ちた空間の仕事だった。その風景や静物画は東洋的な精神とヨーロッパの精神の結合から生れた深いものだった。
平成5年1月31日、パリにいてもなお故郷・北海道を愛し続けた蛯子善悦は急性骨髄造血機能不全症のためパリ市内の病院で帰らぬ人となった。享年61歳だった。2年後に東京日動画廊と北海道立函館美術館で遺作展が開催された。

本文/「ステップアップ」vol.130(2000.1)より
(写真/蛯子幸子、資料/「抒情の光・蛯子喜悦展」北海道立函館美術館、北海道新聞、取材協力/蛯子幸子、関口昭平、青柳寛治)

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